耳をすますナツメグ

だれもみてない、ほら、いまのうち

「不毛」と「生きる」

先日、映画館のナショナル・シアター・ライブで『イェルマ』を観た。イェルマとは、スペイン語で「不毛」の意だという。子どもを持つことを決めた事実婚の女性が思いがけず不妊に悩み、その決断は次第に渇望となり、彼女の人生を蝕んでいく、という話。

 

わたしは、妊娠を望むということがいまだに他人事としか思えない。もちろん、肉体的には紛れもなくいまが適齢期なのだろう。むしろ最近は婦人科系が不調を訴えることが多くなったと感じているので、もしかすると徐々にその時期は終わりかけているのかもしれない。

一般的には、同年代の友人たちの人生のステージが変わっていくことに刺激されて焦りを覚えるものらしい。けれどわたしと付き合ってくれるわずかな友人は、大抵マイペースな人ばかりなので、出産した女性もいるものの「わたしも早く…」とはさっぱり思えない。周りに影響されて焦りを覚える人というのは、学生時代にきちんと人間関係を頑張ってきた人だろう。わたしの場合は同級生たちよりも、休日に一人で外に出たときのほうがよほど居心地の悪さを感じる。いま住んでいる場所が同年代の親子連れが多いエリアだからだ。ちゃらちゃらとした身なりをして、一人でうろついているわたしは場違いなのではないか? ほのぼのと駆け回る子どもがこの街の主役であり、おとなたちはそれを見守る役割を与えられているにすぎないのであって、わたしのような一人のおとなが好きなことをする自由は認められていないかのような気分になる。

 

近々入籍をするので、夫になる人とは子どもが生まれたときのことを話すこともある。わたしたちは自分たちの子どもがいつかやって来ることを疑ってはいない。だけど、それはいつなのか? わたしとあなたが自らの意思で決めなければ、その子はいつまでも来てくれない。

 

たぶん夫となる人が、ある日おもむろに言うだろう。「そろそろ…」と。そしてわたしは従うと思う。わたしから切り出すことはたぶんないだろう。わたしは彼が言い出さない限りずっと、「いつかは」と思いながら黙っているだろう。

妊娠することはこわい。出産はもっとこわい。痛いのもこわいし、吐き気がするのも、食べ物の内容や量が変わるのも、お金がかかるのも、腹がせり出すのも、腹のなかでわたしでない誰かが動くだろうことも、いざというときにわたしの血や体力や栄養や運が足りないかもしれないこともだ。だが一番こわいのは、わたしとあなたが今とは別の人になってしまうかもしれないことだ。

妊娠してもしなくても、わたしたちは自分たちの子どもを持つという選択をした時点で、自分たちを変える選択をしたことになるのかもしれない。それがうまくいかなかったとしても、わたしたちはそれを試みる前の自分ではなくなるのだから。だから、臆病なわたしは黙っているだろう。

あのときは別にいらないと思ったものが、後になってものすごく欲しくなるという展開は残酷だ。妊娠に限らず、わたしたちは大小なりとも似たような経験をしてきている。受験に就職に転職に結婚、もう二度と会えない人、伝えられなかった言葉、思い出になる前に消えた記憶。一度しかない人生で取り返しのつかない痛みだからこそ、その痛みを味わう未来が怖いのだ。叶えることにリミットのある欲望は、さほど切実でなくても、あたかも強いものであるかのように錯覚してしまう。そしてそれさえ叶えられれば、自分の人生のすべてが肯定されるかのごとく切望する。

 

 

また別の日、黒澤明の映画を舞台化したミュージカル『生きる』を観た。病気で余命を宣告された定年間近の市役所職員が、それまでの判で押したような人生を投げ打ってでも最期に生きた証を残そうとする物語だった。

主人公山本勘司の最後の願いは、街に公園を作ることだった。そしてその願いが彼の胸につよく宿った真の理由は、舞台のフィナーレで明かされることになる。それを知ったとき、わたしは声を上げて泣き出したかった。

 

ただ生きることそのもののみに価値があるとは、わたしはまだ思えない。けれど、舞台の上に息づいていた重くも軽くもないただの一人の男の人生を見守っていて、命は、その存在だけでも何かを誰かに与えていることがあるのかもしれないと、わたしは思った。わたしたちはたぶん知らないうちに与え、知らないうちに与えられている。損得のバランスなんて絶対に取れることのないこれらの循環のなかで、与えられたものを返す行為は、もしかすると歳を重ねるごとに困難になっていく。だから、成熟した人間はみずから与えようと努めるようになるのだろうか。

 

自分の子どもを産みたいと、腹から湧き出すように自然に思うようになることはまだしばらくないかもしれない。でもいつか死ぬ日に自分の人生に満足して終わることを夢見るように、いつから誰かに何かを与えることを夢見ていることくらいは許されるだろう。