耳をすますナツメグ

だれもみてない、ほら、いまのうち

ミュージカル「エリザベート」2019年6月29日夜 帝国劇場

今年のエリザベートの1回目はWEBサービス「おけぴ」会員限定の観劇会で拝見。この観劇会に参加すると細かいトリビアや人物相関図が書かれた観劇まっぷがもらえる。これに登場しているのが今回は成河さんで、ディズニー映画「アラジン」におけるジーニーのようにサービス精神旺盛にいろんな表情で紹介写真に映っているのを見て喜んでいたら(舞台上では薄汚いアナーキストの役だけどこのチラシではさわやかシャツ姿なのもかわいい)、WEBのおけぴでもがっつりインタビューが公開されていた。こちらもめちゃくちゃ面白いので、エリザベート好きな方はわたしのブログを読むくらいなら是非そちらをお読みください。

 

以下、ネタバレに配慮しない感想です。

 

本日のキャスト

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トートはルキーニの創作物

古川さんのトートは「死神」とか「黄泉の帝王」とか「死という抽象概念」という感じよりもむしろ、「悪魔」というのがしっくりくるイメージ。ビジュアルから勝手になんとなく冷たくて高慢で美しいトートになるのかなと思っていたので少し意外だった。

トートが「愛と死の輪舞」の後、シシィに向ってキスを投げるかのように口元を手で撫でるのがとても耽美で目を奪われるのだけど、でもその直後にトートとちょうど同じ位置に現れる成河ルキーニがいやらしい笑みを浮かべながら同じしぐさ、口元を手でこすって見せてくる。同じしぐさのはずなのに今度は下劣で、こういうところがすごい成河さん!!って思う。一気に現実に引き戻してくる、この美しいトートは夢の世界の王子様なんかじゃないんだぜ、って舌出しながら突き付けてくる。

このトートという「キャラクター」は、今まで結構お遊び感覚で人の命奪ってきていたけど、エリザベートではじめてひとりの個人にこだわりをもつようになった。思う時に思い通りにならない、我の強いシシィに面白さを感じて遊んでいるつもりだったけど、最後になってようやく、自分が弄んでいたものは自分がどうしようもなく背負っていた業みたいなものだった、と気づくという。

わりとポップに顔をしかめたり喜んだりがっかりしたりするこのトート、終幕でもエリザベートが手に入るよろこびで結構にやにやしていたのに、くちづけてシシィが生気を失ったあと急に気づいて絶望の表情を浮かべる。*1トート自身が死を理解してなかったのだということなんだろう。なぜならトート=ルキーニの創作物だから。

創作物は作者の知悉する世界の域を出ることができない。新しいなにかに気づく瞬間があるのだとしたら、それは作者がともに作中世界を生きたからであって。

ルキーニがやっぱり面白い

ルキーニが殺すのは、たしかに本当に誰でもよかったのかもしれない。だけど、実際にエリザベートの命を奪って投獄されたことで、だれでもよかったはずの相手が、彼の人生にとって決定的な意味を持つ特別な人間になってしまった。実際ルキーニの名前が語られるときは、エリザベート皇后の名前と必ずセットにされることになる、彼自身の人生ではなく。だから、トートという分身がエリザベートの人生に寄り添っているという物語を後付けで作り出した。古川さんのトートの長身痩躯でスマートな身のこなしと不釣り合いなまでの素直な感情表現のギャップ、これはルキーニの自己評価の高さと、抑制が利かず即時的に気分の表出させてしまうというルキーニ自身の性格的特徴をあらわしているともとれるし。

だから、成河さんのルキーニならこういうトート創作しそうだなと。人の命を命とも思わない、それなのに妙に正義感だけは強く、それでいて自分のなかに確固と統合された倫理観を持ってはいない、大衆性の悪辣な部分、その権化のようなルキーニだから。

 

エリザベートを殺害したことを裁かれるという物語のなかで、ルキーニは何度も彼女の利己心に言及して自分を正当化しようとするんだけど、結局最後に自殺するというのは自分で自分に裁きを下したということで。その理由を説明するのがトートの表情だとするのなら、今回の物語の答えは、悔恨なのかな……?

それにしてはやっぱりルキーニがあまりに楽しそうに宮廷の規律を茶化すので、そこはしっくりきていないところがあるのだけど。

あと「キッチュ」で成河さんがインペーリアルテアトル! と言っていたのを「おけぴ」のインタビューを読んでいて思い出した。この発言ってたしかに一瞬引っ掛かりを感じさせて、あ、そっかこの人イタリア人だったんだっけ、っていう劇中のリアルと、あ、そっかここは帝国劇場なんだ、っていう劇場のリアルを同時に呼び覚まされる。インペリアルな場所であるここは確かに帝国が存在していた劇中世界と地続きの場所なんだということを思い出す。劇はそのまま進んでいってしまうので、こういう引っ掛かりは言語化される時間もあまりなく些細なささくれみたいに引っ掛かったままなのだけど、こういう小さな仕掛けが(わたしが意識的に言葉にできるほど気づかされていないだけで)実は無数にあって、見終わったときに「これって一体どんな話だったのだっけ?」という思考に影響してくるのかなと。

自我のつよいシシィ、人間であることをやめたフランツ

愛希さんのシシィは2幕の孤独感が深めだったのが良かった。私だけに以降、もしかしてゾフィも克服できるんじゃないかなと思うくらい強いシシィ。*2だけど、精神病院やコルフ島の場面を見ると、このひとの強さは演じられ作られたもので、強く逞しく自己を鍛えれば鍛えるほどひとりになっていくのでは、と思う。このシシィはトート(つまり死ぬこと)に、たぶん救いを感じるほど惹かれてはいない。

(この点ルドルフ役の大我さんは真逆の、死を希求する薄幸の皇太子だった。この方初めて見たけど、心が影に覆われている表情がどきっとするほど魅力的でお似合いになる……)

一方まりおフランツ、シシィのことはもちろん愛してはいるけどひとりの人であるより前に皇帝であった人だなという感じを受けた。不安定な国と民衆を支え、バランスを取り、厳格に規律を守り、それでも崩壊を食い止められなかった時代の皇帝。悪夢の終わりでルキーニに縋り付くところ、ルキーニは崩壊していく社会の暗部の象徴であり、愛する妻をというよりむしろ彼が必死で食い止めてきたものを押し流していく、時代に対する皇帝の抵抗に見えて辛かった。

まりおくんのフランツって、立ち去るときとかにしゃちほこばった歩き方になるじゃないですか。結構直前まで皇后と言い争ったりしていても。初めて見たときは人形みたいにあやつられる立場ってことを表現してるのかな? と思っていて、誰にあやつられているかというと2015年はゾフィーかな、とふつうに考えていた。でも2016年になって、もしかしてルキーニ? って考えると面白いなと思うようにもなって。

でも今回見ていて、そもそもあやつられているとかではなくて、もうフランツという人には徹頭徹尾「公人」としてのふるまいが身についてしまっているのかなと。宮殿の廊下や、もしかしたら私室の中にだって誰かしら他人が(つまりは彼の国民が)いるかもしれない。早朝から深夜まで皇帝の役目に人生を捧げて、そうした生き方を死ぬまで貫いた人。

人間性を捨て、個としての自分自身を捨て、機械的な所作のすべてを身体に染み込ませなければ成し得なかった人生なのかな。いついかなる瞬間でも皇帝であるというのは。

自我の芽生えたシシィと、個人としての生を持たなかったフランツ・ヨーゼフ。そう考えると、どんなに惹かれても、分かり合えるわけがなかったのかなと。トートよりもむしろこの二人が裏表に見える回だった。

*1:いや死んだらどうなるのか分かってなかったんかい!ってちょっと突っ込みたくなった。

*2:「私だけに」で内面世界に入り込んだシシィが舞台セットの壁に相対して駆け上がろうとするところ、そのまま走り抜けて向こうまで飛び越えてしまいそうに見えたくらい体幹も強いのだ。