耳をすますナツメグ

だれもみてない、ほら、いまのうち

2018年『黒蜥蜴』(梅田芸術劇場メインホール)の思い出

 

 

 

 

本物の恋なんてものがこの世にあるのか。
この問題をある程度まじめに考えてみるとするなら、裏表のようにくっきりと浮き上がってくる別の問いとは、「本物の恋とはいったいなんなのか」。

初めて早苗が消えた事件において、濃密な夜の空気の中ことばを交わし合ったふたりは、実は互いに追う者と追われる者であることを知りながら、その真実を相手に知られてはならないと欺きあっている。そうした「犯罪者・対・探偵」のあいだにある欺瞞は、日常においては色恋の欺瞞にも置き換えられるでしょう。
肉体的なものにとらわれない精神的な美を追求する、という一点において理解しあったふたりだから恋しあうようになったのか。
それが本物の恋なのか。

一幕で明智が緑川夫人に語る「虫のついた花」の謎があって、わたしにはこれがなんのことなのかさっぱり分からないので考えてみると、虫も花もそれぞれが独自の美を持っているのにも関わらず、互いに影響しあった瞬間に互いが互いの美の完成を邪魔しあう関係になる。
だとすれば「花を贈った男」の目を潰してしまうという「女」の行為が「やさしさ」かといえばそうなのかもしれない。見る者がいなければ美はそれそのものとして完璧に独立していられるから……。
とはいえ、そうだとするなら「女」が自分自身の目を潰してしまわない理由がわからないけれども。
ただ、フィナーレで明智が吐く最後の台詞は、自分自身が本物だと信じない限り何物すらも本物ではありえないのだともとれるので、そうした意味の裏付けはあるのかなと。

一方、雨宮と偽早苗の恋は、死後に他者の目に映る「創作された」恋が生前の自分たちの恋情に反映されるという逆転劇で、これもまた非常に奇妙でひねくれているけれど、相手の中に自分を見つけたせいで簡単に愛せるようになるという、一番リアリティのある恋のかたちでもあると思った。
死にたいとまで思い詰めていた彼が恋により生への欲望を取り戻してしまったせいで、美しさを失ってしまったばかりか幾分卑俗にすら感じられる。
雨宮があまりにも生々しさを持っていて、そうであるがゆえに黒蜥蜴と明智の恋はひどくロマンティックで純なものとして称揚されているかのようだった。

私個人としては三島由紀夫は『金閣寺』しか読んだことがなく、黒蜥蜴も戯曲・原作ともに触れたことがない。
三島自体、わたしにとってはあまりへの美への強い希求に圧倒されるばかりでどこかすうっと引いてしまうような思いを持っており、
乱歩の変態的ともいえる世界観も(たまに興味本位で覗きたくなることはあれども)本質的にすごく好みというわけではないので、今回の舞台はそれほど楽しみにして観に行ったというわけではなかった。

にもかかわらず、演出というか舞台の使い方はツボにはまってしまった。
冒頭や配置転換で役者たちがドアや調度を運び、回転させ、見知らぬ人々がすれ違う都会の雑踏を表すように舞台盆が回っていくところでは、これが観たくてわたし舞台を観にきてるんだ、とすら思ったほど。

アフタートークでも、極力舞台装置を配して客の頭の中で完成させるのが演劇の理想と、井上さんがルヴォー氏の考えについて語られていた。
確かにそうしたシンプルさを追求した結果、配置と動きそのものに美しさがうまれていた気がして、
だからこそグロテスクが苦手なわたしでもこの舞台を受け入れられたのかなあと思った。

たぶんこの戯曲って、徹底的に美を追求することもできるし、そうしたときに必然的にどこかで浮き彫りになってしまうグロテスクさもあるのだろうし、逆に醜さから美を炙り出す手法だって考えられるのかもしれない(実現する人がいるのかはともかく)。
そこを観客の想像に委ねることによって、エンタメとしても受け入れやすく、芸術としても精神的な価値を描きだす、この作品にフィットした手法となっていたのではと思います。
(ああ、あと音楽も良かったな。芳雄さんは歌わないけど。舞台上手側に小さなオケがあって、効果的で心地の良いサウンドトラックが流れていた。だれも歌わないけどサントラが売ってたらうっかり買ったかもしれない。)