耳をすますナツメグ

だれもみてない、ほら、いまのうち

BLについて

わたしのインターネット人生は腐女子へのあこがれとともに始まった。それは2002年前後のことで、なにげなくそのころ好きだった児童文学のタイトルを検索すれば大人のお姉さんたちがやっている二次創作ファンサイトにたどり着いた。現実世界よりも物語の中の世界に没頭する小学生だったわたしは、大好きなお話の中でパラレルに自分の創作が存在できる場所に夢中になった。そして、ときに逞ましい妄想力で小説を紡ぎ、ときには怜悧な知性で周囲の社会を見通す、インターネットの中の大人のお姉さんたちは、それからずっと憧れの存在だった。

ただ、インターネット上の彼女たちの創作物や日記を傍観しているうちに、彼女たちにわたしには理解できないメンタリティがあることに気づいた。彼女たちの趣味でありながら同時にアイデンティティにも及んでいるそれは、ときには彼女らが自らを腐女子と称し、BLとカテゴライズされる小説や漫画などを消費・生産することで可視化されていた。

ところが、わたしには解らなかった。ひとつもグッとこなかったのである。男同士ならではの関係性に憧れる気持ちはものすごくわかるものの、どうしてそれを性愛に変換しなければならないのか?

たんなる仲間意識というよりも深く、友情よりも濃いその感情を、呼ぶことばを持たないのが悔しいけれど、かといってそれを女が男に対して抱く欲望と同じカテゴリに分類してしまうことは、わたしにとってはむしろ寂しさをかき立てられるものだった。

大学に入り、社会人になって、インターネットの外の世界にいるBL好きを公言する友人ができてから、その寂しさは余計に強まった。彼女たちの賢さと強さは相変わらずわたしの尊敬の対象であった。それなのに、わたしが腐女子的な萌えに共感できないせいで、彼女たちの精神のいちばん深いところにアクセスできていないようなもどかしさが常にあるような気がしていた。

そんなときに出会ったのが、岡田育さんのWEB記事だった。

https://cakes.mu/posts/18480

この解説のおかげで、以上のような満たされない思いを抱えていたわたしのなかでは、ひとつ腑に落ちるものがあった。つまり、男性主義社会への憎悪を萌えに変換して愛する手段がBLだったということだと理解した。そうだとしたらそれを表明するひとが、わたしには慈愛のひとに思えてくる。確かに全てのBL愛好家に当てはまるものでもないのかもしれないけど、私の周りにいた腐女子を思い浮かべれば、なんとなく合点が行く気がするのである。つまり、男性社会に対する反発心と、かすかな憧憬。女性であるにも関わらず、女性コミュニティにも距離を感じる、かといって男性社会では否応なくマイノリティと見なされてしまうもどかしさ。女性である以前に、自分が自分であることを認められたいという意識。

そして、この解釈によって、漠然と憧れの気持ちを抱いている同性である彼女たちの、精神のいちばん深いところがどうにも理解できないような気がしていた、そのしこりが少しだけ柔らかくなったような気がしたのである。

たとえばわたしがどうにも好きな異性愛フィクションの中でありがちな萌えポイント(引き離された幼馴染同士が思春期を経て再会し恋に落ちたり、昔からヒロインのがんばる姿をずっと見守っている大人の男性がいるなど)も、他人にとっては「何が面白いねん」というものにすぎないのかもしれず、だから腐女子の萌えポイントも、わたしにはハマらないものもあるというだけのことだったのだろう。

しかしながら、もしかすると作品の表現方法によってはハマれるものに出会えるのかもしれないと思えたことは、上記の記事を読んだことからの収穫でもある。

これからもBLにたいしては特別な嫌悪も愛好もすることないと思うが、いつか自分のツボを的確に押さえてくる作品に何かのきっかけで出会えるかもしれない。その暁には、常にフィクションの消費を必要とし続けてきたわたしの中の世界は、少し豊かになっていることだろう。