耳をすますナツメグ

だれもみてない、ほら、いまのうち

『月の獣』2019年12月28日 兵庫県立文化センター中ホール

今年どんなお芝居を見たかな?と振り返っていたら、最後の最後で、いま出会えてよかったと心から言える作品に出会ってしまった。

 

第一次大戦期のトルコによるアルメニア人迫害という史実を題材に、民族虐殺を生き延びアメリカではじめて対面したあるアルメニア人の男女が、いかにして互いの考えや生き方に向き合い、共に生きることを選択するか。その経緯を丁寧に描くことに物語はフォーカスしている。

 

夫のアラム(眞島秀和)は、はじめのうちキリスト教の原理的な考え方に深く染まっている。聖書の〈ティモテへの手紙〉の節を「女は静かに従い」「慎み深く」「男性の上に立ってはならない」などと幾度も引用しながら、孤児院から引き取ったまだ十代のセタ(岸井ゆきの)に、慎み深く夫に従い、子どもを産み育てることが女の幸福だという考えを根気強く伝えようとする。そして自分自身の家族がそうしていたように、家父長制家庭を作り上げることに固執する。

ところがセタは、進歩的な考えを持つ母親のいる開放的な家庭の記憶を持つ女性である。またジェノサイドの過程で姉が強姦され殺された過去から、セックスにたいする恐怖と苦痛を覚えている。その事実を知り、自分の性欲がセタのトラウマをよみがえらせるものだと知っているのにも関わらず、アルムは子どもをもつことが幸福の絶対的な必要条件だという考えから逃れることができない。セタは何年も妊娠せず、家庭内の雰囲気は徐々に息苦しいものになっていく。

それでも自分の夫と、ひとりの人間として心を通じ合わせようとするセタのけなげさに、心を打たれる。怒ったり、あきらめたり、泣いたり、悔しかったり、意地を張ったりしながら、何度もアラムに問いかける。一見唐突に見える行動の理由が台詞で説明されなくても、セタが自分なりに考えて実行していることがその振る舞いから見て取れる。妊娠しないのに、痛くてできなくなるまで続けるセックスの時間を避けたくて、でも彼には向き合ってわかりたいと思うから、彼のすきなチョコレートケーキを焼いて一緒に過ごす時間を作ろうとしたり。彼の仕事が成功していちばん嬉しい日に送られたプレゼントが、家事のための道具であるアイロンで、かすかにがっかりしながらも、彼のために笑顔を見せる表情など……。

こうして文章にしてみるとかなりきつい作品のようなのだが、役者さんの人柄もあってかアラムが根から嫌な人間のようには決して見えないように演じられているので、彼に対して憤りや嫌悪というよりは、根本にあるせつなさやさみしさのようなものを感じる。そして最後には明らかになる彼の心の穴の存在が、じつは最初から観客にはほのめかされていることに少しずつ気が付く。

彼の心にある埋められようのない欠落。それは彼らが被ったどうしようもなく残酷な人類の罪科によるトラウマであったのだけれど、彼本来のやさしさと、理想の家庭を求めて躍起にならざるを得なかった理由との間にある齟齬は、もしかすると多かれ少なかれだれもが経験したことのある感覚なのかもしれない。だから、すこしずつ歩み寄っていける彼らの姿に力を得られるのでは。

 

アラムとセタの関係は、ヴィンセント(升水柚希)という孤児の少年の世話をすることで変化しはじめる。セタはヴィンセントにもアラムにも同じように、互いの苦しみを開示しあうことで固まった心を解きほぐし、新しい関係を構築しようとし、その接し方にはハッとさせられる。わたしは相手が辛い思いをしているとき、それにふれないようにすることがやさしさだと思ってしまいがちだけれど、必ずしもそうではないこともあるのだと気づく。寄り添い、耳を傾けること。わたしも同じだよ、と手を重ねること。


そして、冒頭から狂言回しとして登場する久保酎吉さんが何の役割を果たしているのか、という点もこのお話のひとつのポイントだった。「彼らの世代のことを知りたいのです」という彼は、見た目は確かに老人で、アラムとセタよりも上の世代のよう。でもじつは彼らよりも未来に生きる世代だと知ったとき、この芝居の持つ意味が変化する。世代間の断絶について抱いていたあきらめのようなものについても、改めて見直してもいいんじゃないか、そういった優しい光のようなメッセージを感じる。
そして、この語り部の佇まいこそが、幕が下りたその後の彼ら三人の人生をも表してもいる。だから彼が記憶を慈しむように言葉を紡ぐことに安堵し、幕が下りた後には、まだすべてが始まったばかりなのにもかかわらず、あたたかいものが胸に広がる。

 

セタが家に来たはじめの日には「だれか他の人がいるみたい」と言うカメラのこと。たしかに写真ってだれかここにいない人が見るために撮るものだ。わたしたちにとってはあまりにも日常に溶け込みすぎているけれど。物語の最初には、型どおりの理想の中へ閉じ込める檻のようだったそのカメラが、最後のシーンでは未来に向かって開く扉の役目をしている。

自分たちを型どおりの枠にはめることは息苦しい。でも、そばにいるだれかと向き合うことをやめるとしたら、だれかと生きる意味はない。

あなたの押し付ける価値観のもとでわたしはつらい、という気持ちは、あなたと向き合い、手に手を取って歩いていきたい、という気持ちに相反するものでは全くなく、むしろその延長線上にある。そう感じられたことがとてもよかった。

 

f:id:sanasanagi:20191231112053j:image

観劇の記念に購入したパンフレット。客席で他の方が手にしているのが目に入ったとき、なんと美しい冊子なのだ…とつい買ってしまった。翌日には売り切れていたようなので、同じように感じた人も多かったのかな。