あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。
最近はガーッと読んでバクッと感想書くみたいな読み方が定着してきてしまったので、特に小説はもっとじっくり読むみたいな読み方をしていきたいなあ…と思っているお正月です。(どうしたら実現できるのかは不明)
小説
『黄色い家』川上未映子
新聞連載小説だったらしく、エンタメ性が高く読みやすい。ぎゅうぎゅう惹きつけて引っ張っていく文章の流れるようななめらかさと、確かにいつかどこかで感じたことがあるのに名前もつけないまま忘れてしまっているのかもしれない感覚をふと思い出させる表現が惜しみなく味わえる稀有な作家。
海外でも翻訳されているらしいがこの1990年代以降の日本社会が急激に翳っていったような感覚やオカルト・スピリチュアルが自然に人の心をひきつけてしまう感じ、あと日陰ぐらしをしている人たちの描写についての感覚って外から見たらどういうふうに読まれるものなんだろうか。
直近で夏物語を読んでたので思うんだけど、女友達との関係が今回も3人関係だねというのと実母(の不在)その身代わりとしての姉的な関係の人がいる話だった。今回にかんしては主人公は女友達とも「黄色い家」のなかで家族みたいな距離感で生活し、そればかりでなく金銭的に支えもするわけだが、そこに粘着質なものや愛憎入り混じるといった感情の応酬がほとんどなく、怒りや苛立ちは発生するものの終始カラッとした印象に感じる。彼女たちの環境は特殊ではあっても一途で世界が狭く、それにどうしようもなく怠惰で自分勝手な一方でキラキラ輝くエネルギーに満ちたシーンもさわやかで若々しい。キラキラした場面(桃子とカラオケではじめて意気投合するところとか)と現実生活の倦怠と焦りに満ちた終盤に時間的距離があるため、失われたものをなつかしむセンチメンタルな雰囲気の方がつよい。
実質的に花は、年の近い蘭や桃子のことも金銭的に養っていたわけだが、彼女たちへの思い入れよりも花のなかには最後まで母と姉(的な人物)にたいして何か返せていないような感覚が残り続けている。実質的になにかをしてもらったということを仮に点数化するようなことができるのなら、たぶん何らかの発達障害があるであろう黄美子さんに花は十分すぎることをしてあげられていたと思うのだが、しかしそういう客観的な指標ではかれるものではない、精神的に一番必要な時期に必要なものを与えてくれた、母や姉(もしくはそのような役割をおこなった人物)にたいして、我々は永遠に返すことができないなんらかの感覚を覚え続ける。
この感覚ってたぶん多くの人に共通するもので、返せていないという感覚があるからこそ次の世代の人間に…という気持ちにつながっていくのかもしれないが、自分にとって母的な役割を果たしてくれた人物と血のつながりを持たないとき、返せていないという感覚はどこへ向かうのだろうか。
『一人娘』グアダルーペ・ネッテル(宇野和美 訳)
生まれただけで苦しむ人間が一定数生まれる確率があるのだから、産むべきではない、という考え方があるらしいのだけど、この小説を読んでいるとだれかが苦しんでいるかどうかはその本人以外のだれが決めることでもない、という感想に至る。読み終わってから表紙の点描画を見返す。常に一面的で、常に一色だけに塗りこめられた人生などありえない。
読んでいる間、重度の障害を持つ娘のケアを続けられず責任を問われた母親のニュースが頭をよぎっていた。この小説で、幸運にも深い愛情に満ちたマルレネのようなベビーシッターに出会えたアリナは幸運きわまりない。生まれた瞬間に死ぬだろうと言われながら出産した子が奇跡的に命を取り留めたことで、育てる覚悟ができていないアリナにとって喜びではなく「驚愕と拒絶感」が先だったというのも当然に感じる。このように重いテーマを扱っていながら、この小説の受け入れやすさを支えているのは、結末がある程度希望に支えられたものであるという予想と、語り手がどんなに親しくとも医療的ケアを担う当事者というわけではなく、その友人であるという視点のためだ。予想通り物語は心地よく着地するものの、アリナとその娘イネスの人生はまだ続くのだし、その先が必ずしも希望に満ちたものであると信じることはできない。ただ、並行して、子どもからのDVに悩むシングルマザーのドリスとニコラス親子のエピソードや、語り手ラウラ自身の母との関係が変質していくこと、そして卵を蹴り落して托卵する鳥の不穏な描写が絡み合い、"一人娘"との関係は決して1対1のものでもなければ永遠に同質なものでもないと、繰り返し伝えてくる。むろん、当事者ではない者にできるのはそこまでなのだけれど。
このあとどんなことが起こりうるかは考えずに、今していること、今の日常に集中するのだ。今日は息をしていても、明日はわからない。(略)『休戦』という美しくもおそろしい本で、プリーモ・レーヴィは、アウシュヴィッツの非人間的な状況を人びとが生き延びられたのは、ヒゲを洗うといった一連の日課のおかげにほかならないと語っている。そういったことが以前の生活を思い出させ、尊厳を取り戻させてくれたのだと。日々を支えるのは、そういったささやかな行為なのだ。(p.142-143)
『破果』ク・ビョンモ(小山内園子 訳)
大好きな花總まりさん主演でミュージカル化するということで読みました。普段映画やミュージカルを観るとき、事前に原作を読了するというのはあまりしない方なのだけど、(文章の方が心理が明確に説明されてしまうため、お芝居を観る前に原作を読むのは解答を見てから問題を解くみたいな気まずさを覚えてしまう。それが別に悪いわけではないと思うのだが、個人的には芝居を観る楽しさがちょっと削がれたような気分になる)これに関しては前から気になっていた本だったのと、花總さんがSNSで語っているコメントにも惹かれて我慢できず。
そういう経緯があったため、純粋に小説として楽しむというよりはどんなふうに演劇にするのだろう…と妄想しながら読むことになった。花總さんのファンの方はたぶんよくわかっていただけると思うのだが、当然このクライマックスのシーンは劇で見るのがめちゃくちゃ楽しみである。たぶんマリー・アントワネットが好きだった方は同じ思いなのではないだろうか。今回に関しては小説を読んだからといって芝居の楽しみが削がれるということはなさそうで、楽しみ〜〜
『ディア・ベイビー』ウィリアム・サローヤン(関汀子 訳)
10ページぐらいの短い短編を集めた本で、隙間時間にちょこちょこ読みました。全体的な漠然としたイメージの話になってしまうが、セットで出版されたと思われる『リトル・チルドレン』が子どもの視点で世界を見たものだとしたら、こちらは純粋なまま大人になってしまって直面した世界の厳しさに泣きたいけどうまく泣けずにいる、みたいな雰囲気でシニカルな視線を感じる作品も多かったような。
『夢のなかで責任がはじまる』デルモア・シュワルツ(小澤身和子 訳)
サローヤンを読んでいたら何故かこの本を読みたくなるな、と思って最初のほうの短編だけ読んで積んでいた『夢のなかで責任がはじまる』を読了。わたしが同時期に読んだのはたまたまなんですが、1913年生まれのデルモア・シュワルツは1908年生まれのサローヤンと世代も近い。ユダヤ系のシュワルツ、アルメニア移民のサローヤンはバックグラウンドこそ異なるが当時のアメリカの独特の空気は共通しているのかなと思う。斜に構えた感じと、成功者の理想像にとらわれながらも情けない実生活を送る子どもおじさんみたいな男性像。サローヤンの『ああ 優等生』という短編と、シュワルツの『アメリカ!アメリカ!アメリカ!』を読んで同じ話してるやん!となりました。
『生きる意味は子どもにあり』で感じたペシミズムというのかシニシズムというのか、皮肉な笑いみたいな視線もサローヤンとなんとなく似てる。何になるのも自由であるからこそ親がどうであるか、親に愛されたかどうかが、自分の人生を決めるための高い比重を占めてしまう。『アメリカ!アメリカ!アメリカ!』も似たモチーフの作品で、「自分」とはなんなのか、自分が成功するためにはどうしたらいいのか、こんなにも突き詰めなければならない強迫観念にさらされているとは、可哀想になるくらいだ……。
個人主義を標榜しているはずのアメリカがやたら家族を重視したがるイメージもあるのはずっと不思議だったのですが、それらはたぶん裏表なのだと感じる。成功すればそれは個人の勝利だが、成功できなかったときにだれも助けてはくれず、血縁家族に頼らざるを得なくなってしまう。『生きる意味は子どもにあり』でダメな末っ子の弟をやたら甘やかしてる母と姉が弟の食・住・金といった実利的な面を支えてるパワフルな存在として書かれているのも、『この世界は結婚式』のローラや『大晦日』のデリアのように、熱を浮かされたように理想を語る人びとのパーティに水を差す女性がいるというのも、女がそうならざるを得ない立場というか。だれかがそれをやらなければ全員が食べられなくて共倒れになるだけだから、できる者がやった結果そうなるというか……。ある意味個人としての成功というプレッシャーの埒外におかれている存在だから可能だともいえるけれども。
舞台
バグダッド・カフェ
有名映画の舞台化なのですが、わたしは映画のほうは未見。後半まで見て気づいたのですが、前半はよそものでなじめないでいる主人公目線で終始するため、1幕は歌をきいても歌っている人物の本心がわからないまま聴くことになり、先日『イリュージョニスト』で感じたようなモヤモヤ感(演出上の都合により、ミュージカルの歌に求める内面の吐露というカタルシスが得られないということ)があった。
2幕もわりとなかなかトンチキな展開だけれど、主演のジャスミン(を演じる花總まりさん)がニコニコしてて嬉しそうで可愛いのと周りの人々が楽しそうなのと上質な音楽との相乗効果で全体として「なんかいいものをみたかも」みたいな気分にさせられる。しかしブレンダはじめカフェの人びとが「なんなのよあんた」から「大好きなマイフレンド」になるまでのもう一段階、もう1エピソードか台詞のやりとりでもあったら良かったと思わなくもない。1幕と2幕でカチッとスイッチ切り替えたみたいに空気感を変えたな〜と感じたので、そこはもうちょっとグラデーションっぽくしてほしかったような……
終演後に劇場(梅芸のシアター・ドラマシティ)を出たら、阪急ホテルの下のキラキラのクリスマスツリーの下でウェディングフォトを撮っているカップルがいて、集団幻想を見てご機嫌になった観劇後の客たちが物語の続きを見ているかのような気分で「ヒューヒュー!」パチパチ(拍手)しだすというご機嫌な場になっていたのはなかなか味わい深かった。わたしの好きな絵本で「おはなしがおわったというのに こどもたちはまだほんのせかいにいました。」という一節があり*1、完全に今これやん…となってました。
*1:『どんぐりむらのほんやさん』なかやみわ作




