耳をすますナツメグ

だれもみてない、ほら、いまのうち

韓国ミュージカルOnScreen「エリザベート」

楽しんだ!もういろいろな意味でわたしは生の舞台を見に行くことはしばらくないと思うけど、エリザベート、やっぱり面白いですよね…。わたしが一番ハマって親と思っているエリザベートはDVDにもなっている2016年日本版ですが、比べても随所の味付けが結構違っていて、韓国版は「女として生きる苦しみ」その裏側にある「男らしさを押し付けられる苦しみ」をより感じる演出。別物に感じるのがめちゃくちゃおもしろかった。

字幕も日本語版の歌詞ではなく、「韓国語舞台版の日本語訳」です。当たり前なのだけど。シーンそのものが丸々無かったり順番が違ったりするので、そうしなければ作品として成立しないだろうなという感じではある。演出意図として大切にしているものがそもそも違うゆえ、歌詞や台詞も変わってきているんだなーという印象でした。

なんかめっちゃオシャレなオープニング映像もついているし、随所で客席からは絶対に観られないアングルの顔アップがあったり、単に舞台の記録映像という以上にひとつの映像作品として日本に限らず全世界に輸出していこうとしている心意気を感じる(うらやましい)……。

以下感想、演出含めネタバレしていますので、ストーリーご存じの方もこれから観に行かれる予定の場合はご注意ください。

 

kmusicalonscreen.com

 

今回個人的にいちばん発見と思ったのはルドヴィカがマダム・ヴォルフになる意味。マダム・ヴォルフの前に計画通り〜のリプライズが入っていてまずびっくり。そして皇帝のお相手することになる憂いを帯びた雰囲気の娼婦はヘレネーの人が演じている(多分)。日本版とあまりにイメージが違うので、なんでこうなってる?と考えずにはいられなくて。ルドヴィカもマダム・ヴォルフも「若い女を男への売り物にする」という意味においては同じことをやっていたという皮肉だと気づいてつらくなってしまった。目的が家制度を表面上平和的に維持するため、というところまで一緒。マダム・ヴォルフはともかくルドヴィカは母親として社会通念上「よかれ」と思ってそうしていたはずなんですよ。だけど実態は女を苦しめる構造の再生産になっている。

そしてゾフィーはといえば、「愛は存在しない」と言い残して死んでいく。日本版の『ゾフィーの死』はなんだかんだ母として「この手で育てた」息子への愛を語って死ぬけど、この韓国版のゾフィーは肉親への愛を語らない。最期まで「家」という体制の信奉者であり、犠牲者でもあったとみずから語りながら死ぬ。

ゾフィーまわりの側近の貴族たちのホモソーシャルっぷりもリアリティがあってえげつない。シシィとフランツの初夜、貴族たちが好奇の目で見るとはいっても、あからさまにおじさんたちばっかりが、性的な目つきでシシィの寝室を覗き込もうとしてるところとかキモすぎてうげーってなりましたね……。単に「人目にさらされる」ことをシシィが苦しんだというのは、対人ストレスみたいなことだけじゃなくて「若い女として、自分の意思とは関係なく性的に消費されるのが嫌だった」という話になっている。

このあたりのジェンダー押し付け描写については宮廷シーンは徹底していて、一幕ラスト前『皇后の務め』にしても、女が着飾って美しさを磨くことに関しては「ゾフィーも望ましいと考えている」という歌詞あり。別にシシィ個人の身勝手な趣味でやっているわけではなく、本来乗馬や運動が好きなシシィに対する女らしさの押し付けなのだと。(それはそれとしてこのときのリヒテンシュタイン夫人の歌いっぷりがめちゃくちゃ楽しそうにはしゃいでるのには笑っちゃったのですが。たぶん同じ方が体操室やラストの刺殺シーンの付き添いもされていて、最初はうんざりしていたシシィに彼女の方は愛着が生まれていったのかなーと想像するのは結構楽しかった。)

子供時代のルドルフもただ身勝手な母親に捨てられたってだけじゃなく、軍国主義国家の「家」の中で生まれながらに軍人になること・男らしく強くあることを押し付けられて育てられたことが強調されていて、そこも涙出た。こんなにいたいけな子に、なんでそんなことを、と思うと可哀想で悔しくて。その子は大好きなママに見せようと思って持ってたんだよ船の模型をさ…。だけどその船は永遠に到着することなく、行き場を失ってしまう。「猫を殺した」のも精神的不安定さの表れというよりも、本当にこの場所ではそれが「褒められるべき強さの功績」だと信じられてるんだ、というディストピア的な一場面に感じられてぎょっとする。

オク・ジュヒョン氏のシシィは強い女で、『私が踊る時』にせよ「出てって!」のところもめっちゃ最高だった。立ち上がってヒューヒューいいながら拍手したかった。歌の技量もそうなんですが『私が踊る時』なんかくるくる周りながらガンガンロングトーンで歌い上げていて流石にどうなっているんや?となりました。

このシシィだと、晩年各国を旅していたのは宮廷から逃げ回るみたいな受け身の態度というよりはもっと積極的な行為、つまり事実上離婚をしたい意思表示だったんだろうなとさえ思った。『夜のボート』の日本版演出では、愛はあっても今世ではままならなかったね…みたいな切ない熟年夫婦のすれ違い解釈もありうるとは思ってるんだけど、このシシィはもうあの初夜から一切フランツのことなんか見てないし相手にすらしていない。かといってトートのことも幻想の男性として惹かれうる相手のようにみてる感じも特にない。まさに”概念”としての死。

しかもこのトートは、個人の肉体の破滅としての死よりも、滅亡する帝国や歴史のうねりとしての衰退を意味しているんだろうな~と思った。『愛と死の輪舞』ではお姫様抱っこに膝枕に一目ぼれなど恋愛表象てんこ盛りだったものの、それ以降は特にそのような要素が見えなくて。『不幸の始まり』も家庭生活やエリザベートの人生の不幸というよりは傾きつつある帝政の斜陽を歌ったもの。ルドルフの独立運動のあたりもエリザベートを手に入れるためにルドルフの命を奪ったというよりは、社会的風潮の振り子が邪悪なほうに振れてしまったことの象徴のように見えたんですよね…(だからHASSがばっさり無かったのはかなり意外だったのですが……)

トートはビジュアルがばりばりの韓国アイドルで、とことん19世紀末のウィーンの雰囲気に寄せているセットや薄暗い照明の感じからするとかなり異質。シシィの内面のなにかを象徴するためというよりは「対観客」の存在としてあるのかもしれない。個人的に韓国トートのヘアメイク含めビジュアルイメージが全く好みではないのだけど、それなのに全シーンかっこよすぎるのは笑っちゃった。『最後のダンス』の「俺!俺!俺!」みたいなナルシシズムは最高だし、最後通告の後で盆が回ってベッドに両腕広げて寝転んでるのも内心で黄色い声。ただ日本版の椅子の背もたれを手が掴んでその後から顔がぬっと出てくるホラー演出も好きだったから残念だと思ってたら、子ルドルフの「ママ、何処なの」ではその現れ方を踏襲しててうれしかった。最後まで観ると結局何の話だったのか?ってなるのがエリザベートだけど、そんななかで「萌え」を担保しているのがトートの存在だな~と改めて思った。

シシィは社会的な自我に強い意思を保っているからこそ、バリキャリ女性が歳を重ねてちょっとスピリチュアルにハマってしまってる感じとか、1人になると精神を病んでる・病んでないの境界線が分からないような状態になってしまってあやういのとか、現代的な女性像という感じ。と思っていたら精神病院のあたりでルキーニが客席に鏡を向けてきてハッとするのだけど、結局みてるわたしたちだってなんかそれなりに強いフリをして毎日社会の中で自分を演じてやりすごしてるだけで、本当に精神的に大丈夫なのかと問われれば全然そんなことはない。死へ向かう限られた時間の中で「こうあらねばならない」縛りにとらわれて時間を空費し、自由を犠牲にしている。そんな綱渡りに少しでも疑いを抱けば下には深淵がぽっかりと口を開けている。そういう意味ですごく共感を産む『エリザベート』でもあったな。

日本語のエリザベート感想を読んでいて、たまにシシィのことを「自分勝手」と評している感想を見かけることがある。それってシシィと同じ抑圧を社会から感じている人が、そこから逃れたいと感じているシシィには共感してはないということなんだろうなと思っていて。韓国版が抑圧を抑圧として提示することに意識的なのに対して、日本版はそのあたりは曖昧ですよね。でも韓国版と比較すると日本版の萌えに全振りした闇広を見てなければこの作品をここまで好きにもなってなかったかもしれないな~とも思ったりはした。曖昧だからこそ個人の物語としても恋愛の物語としても社会の物語としても見られる側面もあったのかなあと。今回の韓国版映像はわたしははっきりと「家制度に対するアンチテーゼ」として見てしまったので、逆に闇が広がる〜マイヤーリンク〜墓地のあたりはどういうふうに見たらいいのかいまいち分からなくて。そこは映像版がゆえの一定の距離感があったり、意図を汲み切れてない部分もあるのかもしれないけど。