10年ぐらい前に原作を読んだものの内容は全部忘れた…とおもっていたが舞台観てるとなんとなく思い出すものですね。最近はミュージカル情報もあんまりチェックしてなかったのだけどある日何気なくTwitterを開いたらたまたま東京初日で、フォローしている人が一斉に二都物語の話をしていたので勢いでチケットを買いました。
※以降、結末に触れているのでネタバレが嫌な方はご注意ください
この作品、シドニー・カートンは井上芳雄さんの俳優として・人としての好いところを余すことなく発揮した配役だと思う。ダディ・ロング・レッグズのジャーヴィスでも似たようなことを思った気がするけど。
シドニー・カートンが三角関係にやぶれた末に他人の身代わりになって自己犠牲の死を果たすという筋書きだけでも十分名作たりうる物語になってると思うのだけど、そこに監獄で出会ったお針子の女の子と最後まで支え合ったエピソードが差し挟まっている。この点こそ、この作品が後世まで残る理由であり、カートンが井上芳雄でないといけない理由でもある。やっていることは英雄的だけども、ただヒーローとして孤高にかっこいいだけじゃないんですよね。傷ついた人、怖がっている人、孤独な人にいつでも寄り添う目線がある。他人の痛みを知っていること。それが歌や表情や言葉や振舞いの全てで伝わってくる。
前半はちょっとラブコメ風味で、例の星が降りてくる場面の後とか、恋心を自覚していても彼女の前ではなんかちょっとおちゃらけたりして三枚目キャラな自分でいてしまうところは切ない。浦井さんのチャールズが超正統派!キラキラ御曹司キャラなだけにキャラクターの対比が際立つ。そしてルーシーがやさしくしてくれたからって、クリスマスに「あなたがよろこんでくれたらいいのだが…」とか言いながらキスするとこも可愛い。
ですが、見どころはそこから瞬く間に失恋し、ひたすらルーシーを見つめてるシドニーの表情ですよ。衝撃、未練、そしてそれでも変わらぬ一途な愛情。シドニーにとっては、家族がいなくて酒しか信じられるものがなくて空っぽだった人生に人のあたたかさをもたらしてくれたのがきっとルーシーで、だからこそ別に恋人として自分だけのものにならなくても家族の一員になれるだけで良かったんですよね。
たぶん本当は、二人の婚約を知った瞬間に「ちっ。自分がチャールズを法廷で助けなければ」と頭をよぎらなかったとは言えないだろうし、チャールズの処刑を救えないかもしれないとなったときも「このまま放っておけば」とちらりと頭をかすめはしたと思うんだよね芳雄シドニーは。だけどそれ以上にルーシーと子ルーシーを想う気持ち、ふたりに幸せでいてほしいと願う気持ちのほうを優先できたのは一体なぜなんだろうか。
最後、小さなルーシーが階段の上にいてシドニーとカートンが娘の将来の幸せを願う歌の尊さに泣いてしまう(シドニーが自分が身代わりになると決意して、でもそれを隠しながら銀行家のロリー氏と会話しているあたりからもうずっと泣きすぎて記憶があんまりないが😭)のだけど、自分が自分がと思うことよりも子どもに「人を恨まず、涙をまだ知らず、笑っていてくれ」と願うことが、自身の幸せでもあるときっとシドニーは知ったんだよね。そしてそれを教えてくれたのは、ルーシーたち家族とすごした時間だったのだと思う…
1幕の、小さなルーシーの寝かしつけのシーンがめちゃくちゃ良くて…こんなに小さい子がシドニーのこと「彼は自分の幸せを願わないだろうから、彼のために」と神さまに幸せを祈ってくれるんですよ。そういうこと無邪気にいうんだよね子どもがね……。もちろん子どもというものが全くの無垢な存在だとは言えないけれど、それでも子どもが他人を思う心が、大人の目から見てあまりに美しく感じてはっとさせられることはままあって。この美しさが人間の本性なのだと信じていいのなら、と救われる気持ちになる。
革命後のパリ、処刑に次ぐ処刑で、憎悪と苦痛のはけ口が狂気じみた快楽と混ざり合って、天も地も信じられなくなった街で、それでもカートンが未来を信じて小さなルーシーを未来に送り出す選択ができたのは、こういう瞬間があったからなのではないかと。
といいながらも、シドニーの処刑の前に21番で処刑された、貴族だったらしい親子のシルエットが、母親と小さい娘として描かれてるところがね…。これが完全にルーシーたち親子との対照をなすための「あえて」の演出だというのが容赦なさすぎる…。ルーシーたちは奇跡的にヒーロー的な存在がいてくれたおかげで救われたけど、その背後には救われることのなかった数多の命があったことも事実。
フランス革命ミュージカルは数多ある中で、民衆の苦しみの描き方にえぐみを感じはしましたよね。例えばメインストーリーにマリーアントワネットがいる話だと性質上「貧困」にフォーカスされるけど、今回は貴族側の圧倒的悪がエヴレモンド公爵の個人的な罪だというのはあるのかも。もっと個々人の陰惨な、本来「事件」というべき人権侵害が権力と絡みあって描かれてるのがきつい。エヴレモンド公爵の罪って単に持てるものの義務をおざなりにしてたとかシステム構造上の問題じゃなく、あきらかに自分の快楽のためだけに犯罪行為を行っていたのに身分ゆえに守られてきた。それはシステムの崩壊でもあるけど、公爵という人間性個人の邪悪さでもある。
民衆裁判の理不尽さや他人の死を軽々しく快楽として消費する描写は見ていられないほど愚かしいけど、一方で、そこへ向かうまでの憎しみが、構造じゃなくて個人の経験として実感されもする。
国王夫妻を茶化していた道化たちが白塗りのメイクの下でじっとチャールズを睨みつける眼差しが忘れられなくて。ガスパールやテレーズの物語は、子どもが凄惨な目にあうから余計に惨たらしく強烈。子どもを大事にしない権力がどんな人間のことも尊重するはずがない。他人を処刑して喜んでいる人間たちも、他の人間の快楽の犠牲に身近な人の命をいくらでも奪われてきたのだ、と想像させられてしまうから余計にきつい。
テレーズの未来優希さんの迫力も凄かったな〜。子ども時代に絶望を知っても力強く生きてきたこの女の、強さが、すべて復讐に燃える怒りと怨みからくるものだと分かったときに総毛立つ。それで革命の首謀者である夫がそんなテレーズを支えているのもまた…。ドファルジュがずっと「まだだ」ってGOを出すのためらってたのはなんでかって、テレーズが復讐の鬼になって自分を見失ってしまうだろうことが薄々予想できてしまっていたのかもしれないなと。だけどそうしなければ済まないことがテレーズの人生の宿命だし、ドファルジュはそれごと受け止めていたんだよね…それが彼なりの妻への愛だったのだろうね……と、最期に事切れるテレーズを抱くときの数フレーズで感じて泣いてしまった。
この「たった数フレーズの歌なのに奥行きがありすぎて泣く」事象がめちゃくちゃ発生しており…福井さんのマネット医師も。1幕でおとうちゃんとルーシーが再会してからどんな関係だったかの描写はかなり省かれてるのにもかかわらず、ルーシーが結婚するときの歌でこの父親が娘との再会でどれほど救われ、癒やされたかということが感じられるのですよ。監獄生活で正気も記憶も失っていたパパが、まあ舞台上ではストーリーを端折っていつのまにか快復してるんですが、その辺りの時系列ジャンプを全て脳内補完させる歌声なんですよ……。ルーシー演じる潤花さんの立ち居振る舞いや台詞回しも、なんというか他意なく心から身の回りの人たちにあたたかく愛のある振る舞いができる人柄なのだと感じさせる説得力があってよかったなあ。
個々人の物語が積み重なっていくなかで、だれかを救い未来につながるのは愛だけなんだということを繰り返し繰り返し語ってくる物語なんですよね。命を奪い奪われ憎しみに憎しみで返すことはなにも生まないのだと。
史実を扱った世界文学を読んでいると人間の獣性・暴力性に言葉を失うことも多い。だけど影が濃いからこそそのなかに織り込まれた「救い」が光り輝く面もある。だからどんなにつらくても、その聖性を求めて繰り返し読みたくなってしまう。
死の恐怖や怒りで我を忘れて他人への攻撃に転換してしまう、どうしようもない人間の本性は否定できない。それでもその中で最期まで震える手と手を握りあって心を支えあえること、それもまた人間の本質といっていいのではないかと。ミュージカルだからこそ、歌声の力でこれがまぎれもなく愛することの物語なのだと感じられたし、涙の中で心が浄化されるような感覚もあった。本当にすばらしい作品でした。
次の再演はまた12年後…?(そんなばかな…)

