思い出の扉を開く
電子書籍で買った本の履歴を見返していたら、5年ほど前になぜか荻原規子『西の善き魔女』の電子版を買っていたことがわかり思わず読み返した。小学生のとき、初めて手にしたインターネットでハリー・ポッターのファンサイトを検索していて荻原規子さんの名を知り、勾玉三部作や『これは王国のかぎ』、『西の善き魔女』といった作品に夢中になったものだった。もはやそれはもう20年も前のこと……。
なかでも『西の善き魔女』は中公ノベルズ系のレーベルで出た後ハードカバーになったり再度文庫化されたり、最近では角川文庫でも出ていたらしい。わたしが電子版で買ったのは最新の角川版だったみたいだ。ハードカバーが出た時に買ったものもいまは実家にある。何度も版を変えて出るというのは、それだけ長く読み継がれて人気がある小説だということなんだと思う。読み返していると主人公の女の子に一気に感情移入して、物語の中にいる間だけは自分がなりたい別の自分になれる感覚が蘇ってくる。
最近は好きな作家、好きな本ってなんだっけ……?と思うことが増えた。本に対する感情が「好き」という言葉だけでは説明できなくなっているということで、まあそれはそれでいいのだけど、好きな本といったらハリーポッターシリーズ、荻原規子作品、というのがまず筆頭に出てきていたあのころが羨ましくもある。自分で作った小説を載せているホームページのプロフィール欄に、小説以上の熱意で好きな本の名前を書き綴っていた、あのころ。めっちゃなつかしい。そういえば昔はお互いに書いた小説を読み合っていた、顔も知らない方々は今どうされているのだろう。
昔愛読していた本のことを考えるのはたのしい。最近は物思いにふける時間が増え、現実の先行きがぼんやりと不透明なせいか、日記を読み返したり過去のことを思い返す時間が多くなった。どうせ思い出すのなら幸福だった時間の記憶にしたい。
大人とこどもの間
梨木香歩さんの作品も好きだった。彼女の本はいまでも大切にしていて、人生の節々で読み返しているし、新刊が出たら買う。むしろ10代のころはそこに何が書かれているのかもよく分からないまま、小説の中にある世界の壮大さと奥深さと、それから人間の内側にある暗い深淵の存在を感じ取っていただけだった気がする。
当時わたしが読む本は大体が図書館の棚で見つけていて、梨木香歩さんはヤングアダルトの棚にあったので、近くの棚にあった本を続けて読むようになった。そのあたりでは森絵都さんの本が大好きで、『つきのふね』『アーモンド入りチョコレートのワルツ』『ショート・トリップ』『DIVE!!』『永遠の出口』などなど。その影響でいまだにちょっとコミカルな味わいのある文章には弱い。自分より少しだけ上の年齢のリアルな世界を垣間見ているようで、背伸びしているような気分になれるのも好きだった。
そして森絵都の本を教えてくれた小学校の司書の先生が他にもおすすめしていて読んだルイス・サッカー『穴』も大好きで、繰り返し読んだ。これは確か少年院行きになった男の子たちがなぜか砂漠に連れていかれ、毎日毎日決まった大きさの穴を掘り続けるという話だった。同じ歳の女の子が全く出てこないのに当時好きだった本って珍しいと思う。
なぜこれが好きだったかというと、確実に自分のツボがあるからだというのがわかっている。一つの物語のなかで並行して異なる時代の複数のエピソードが語られ、最後にそれらに張り巡らされた伏線がひとつの大きな物語に集約される話が、わたしはめっちゃ好きなのだ。恩田陸『ライオンハート』とかもその類で好きだった気がする…確かそんな話だったと思う。あと、映画『クラウド・アトラス』もこのツボにハマって好きになった作品。
斉藤洋の「白狐魔記」シリーズも同じ司書さんのおすすめで読んだ。仙人のもとで修行し永遠の命を得た白ぎつねが、人間に興味を持ち化けているうちに日本史上の重要事件に巻き込まれて……という話で、たぶん歴史フィクションに入るのだと思うけれどめっちゃおもしろい。白狐魔記と荻原規子作品のせいで高校の社会科選択は日本史ひとすじだったし、好きな(?)歴史人物が竹崎季長という微妙な線を突く子どもであった(でも『蒙古の波』を読んだ方ならなぜ竹崎季長が好きなのかわかるはず…)。当時は図書館にシリーズ3作目までしかなかったのでそれらを繰り返し読んでいたのだけど、いま調べたら2006〜2019年の間に続刊が出ていたんだなあ。そのころには図書館から足が遠のいていたので知らなかった。最新刊では時代が元禄にまで下っている……読みたい………。
ところで斉藤洋さんといえば『ルドルフとイッパイアッテナ』が有名だけどこれはもう少し低年齢向けであったので、弟に読み聞かせるという体で何回も読んだ。いまだに近所ののらねこたちが連れ立って歩いているとこの本を思い出す。同じく弟と一緒に読んだ『なん者ひなた丸』シリーズや『ナツカの幽霊事件簿』シリーズもなつかしい〜。
青い鳥文庫の思い出
いまでも本を選ぶときに「出版社のレーベル」を重視してしまうのは青い鳥文庫のせいだと思う。講談社の児童向けレーベルだったけれど本当に良書ばかりだった。そして青い鳥文庫のフォントがめっちゃ好きだった(大人になってから読む本ではあまり見かけないフォントである)。今の青い鳥文庫のホームページをみると今どきっぽい挿絵のシリーズがたくさん出ていて、時代に合わせて最近の子どもたちにも愛される本がたくさんあるんだろうな、とうれしくなる。これから本を好きになる子どもたちがうらやましい。
当時のわたしは青い鳥文庫でクレヨン王国やら柏葉幸子、あさのあつこなどに出会った。
この本は小学生ながらに友達関係で悩んでいたときなどによく読んでいた。本を開けば出迎えてくれる友だちがいたから。
クレヨン王国はアニメから入って原作を読んだらあまりにも毛色が違ってびっくりしたな。アニメはニワトリのアラエッサとコブタのストンストンのコンビが活躍していたけれど、原作は必ずしもそうじゃなかったので。というか、そもそも一つのシリーズ内でも作品ごとに登場人物どころか物語のジャンルさえバラバラで、短編集があれば大長編もあり、ファンタジーかと思えば現実世界に根差した物語があり、多種多様な物語を読むたのしみを覚えたと思う。しかし、ちょっといま調べてタイトルを見返してもほとんど具体的な内容の記憶がないので、読んだのはもっと幼いときだったのかなあ。でもまた読み返したいなあ……。
当時大人気だった青い鳥文庫の夢水清志郎シリーズやパスワードシリーズのような同年代の登場人物と名探偵が出てくる小説を繰り返し読み、そこからミステリが気になってアガサ・クリスティに手を出した。このときには何かに「翻訳ものは完訳を読まなければ意味がない」と書いてあったのをうのみにして、偕成社文庫やハヤカワ文庫を頼りにしていた。ホームズは麻薬中毒で顔色が悪いという理由であまり好きではなかったけど、ポワロは几帳面な性格で好感が持てた。名探偵コナンも好きだったので江戸川乱歩の少年探偵団シリーズもちまちま読んでたな。子どもってミステリ好きですよね。でも、乱歩は女の子が少年探偵団にいないのが不満であんまり好きじゃなかった。アニメのコナンで灰原が活躍する回が好きだったので……。ただあまりにミステリばかり読んでいるので、心配した担任の先生が幻想小説風味の安房直子作品を勧めてくれたり、同じようにミステリばかり読んでいるのを心配した母がハリーポッターを買ってくれたのでそれでファンタジーも読むようになった、という記憶がある。
この強烈な印象の表紙絵のポワロはドラマや映画版とはずいぶんイメージが違うし、作中にあるように「卵形の頭」ですらないが、わたしのイメージはこれである。偕成社文庫のクリスティーは児童向けなのに完訳なので愛読していた。
ファンタジーもろもろ
小6でインターネットに出会ってからというものは好きな本の二次創作を書いている人のおすすめ本から読みたい本を芋づる式に探した。芋づるスタートは確かハリーポッターで、ハリーポッター好きな人は高確率で荻原規子好きだったので読み、このルートが当たりだったので味をしめたのだろう。向山貴彦『童話物語』やダイアナ・ウィン・ジョーンズのクレストマンシーシリーズもこれで出会った。そこから佐竹美保さんの挿絵が好きかもしれないということに気づき、『不思議を売る男』とか『ローワンの魔法の地図』とかを読んだな〜。
『不思議を売る男』はタイトルの通り不思議なグッズを売り歩いてる男の連作短編形式の本なのだけど、「虚栄心の話」と題された不思議な鏡の話は、いまでも鏡を見るときにちょっと思い出してしまうくらい。
そしてインターネットに教えてもらったことを最も感謝したいのは「十二国記」シリーズ。大人になる過程で、行動の決断とか善悪の判断の指針となる倫理観みたいなものを築くのに、十二国記は確実に一役買ってくれていたと思う。十二国記もハリーポッター好きな人がみんな以下略…という流れで知ったのだが、近所の図書館にあったのがイラスト挿絵ありの講談社ホワイトハート版ではなく、表紙に稲妻(?)のようなものが走っているだけの謎の装丁の講談社文庫版だったため、この本はほんまにおもしろいんか??どんな話なんや??そもそもどこから読んだらええんや????とハテナがいっぱい浮かびながら手に取った記憶がある。当時は今の新潮文庫版と違ってナンバリングもされていなかったし、途中から入る人には刊行順もわからなかったのです。ちなみに検討の結果、同じ年頃の少女が主人公である『図南の翼』から読み、まんまと夢中になった。
最初からこの美しい装丁の本で読めていたら無駄にためらわずにすんだのに…
だれかが用意してくれた本
自分で本を選ぶようになってから好きだった本は以上のようなかんじで選んでいたけど、それ以前は基本的に親に買ってもらって家にあった本を繰り返し読む感じだった。いちばん印象深いのはエンデの『モモ』。いまだにテレビやスマホをだらだら見て時間を無為に過ごしているときなどには山高帽の男たちが頭に浮かぶし、自分にはとてもやりきれないような膨大な量の仕事に取り組むときには道路掃除夫ベッポの言葉を思い出す。
それ以外でよく覚えているのは集英社世界文学の森シリーズで、若草物語、赤毛のアン、シートン動物記、ファーブル昆虫記、吸血鬼カーミラ、透明人間などなど。そのころはレーベルという概念があまりなかったものの、このシリーズはカバーの色があざやかで綺麗だなあみたいな感覚はあった気がする。本は中身が全てとはいえ、装丁ってやっぱり大事なんですよ……。しかし世界文学の森のホームページを改めて見たら、家にあったのが全巻のうち数冊のみだったことが分かる。『秘密の花園』とか読む機会を逃したまま三十歳になってしまったんですが、少女のとき読みたかったなあ。
この若草色の『若草物語』の表紙が大好きだった。
いつもだれかに教えてもらってる
こうして振り返ってみると、わたしが読んできた本はほとんどだれかに教えてもらって手に取ったものばかりだ。特に書き出してみるまですっかり忘れていたのが、小学校の司書の先生にめちゃくちゃお世話になっていたこと……。恩知らずで申し訳なかったなあ。そして、本を手に取るのが自然になるように買い与えてくれていた家族にも感謝したい。
いまでは好きなだけ自分で本を選んで買うことができるようになったけど、100%自分で選びましたと言える本ってまあない。ブログやツイッターで話題にされているのを見て気になった本や著者も多いし、本屋さんをふらふらしていて手に取る本だって、たぶん書店員さんのおすすめに則っているんだろう。わたしが無意識におすすめに従っていた司書さんのいる小学校の図書館みたいに。
最近読んでいる本たちとくらべると一見傾向は変わっているようで、自分の中では昔からずっと芋づる式に手繰って、この本を読んだあなたには次はこれ、とすすめられるがまま読み継いできたという感じがする。もしかするとわたしはずっと誰かと本の話がしたいために本を読んでいたのかもしれない。