耳をすますナツメグ

だれもみてない、ほら、いまのうち

『ラ・ラ・ランド』を私は求めていなかった

春も終わりに近づき、日本では2月に公開された映画『ラ・ラ・ランド』のブームも落ち着いてきたように思えるが、いまだに私は『ラ・ラ・ランド』のサウンドトラックを音楽聞き放題アプリで流しながら毎朝出かける支度をしている。特に「Another Day Of Sun」「Someone In The Crowd」のメロディは頭に残り、エンドレスで回旋しながら私の気分を高揚させ続ける。それらが私に思い出させる映画の中のヒロイン、ミア(エマ・ストーン)の黄色いドレスや赤いバッグ、アルバイト先のカフェでの白いシャツ姿などのシンプルかつキュートな衣装姿も、朝の気分を高めるのに一役買ってくれる。だからいまひとつやる気の出ない朝でも、朝陽とともに気持ちよく目覚めた朝でも、無条件で前向きな気分に持っていってくれるこのサウンドトラックは貴重な存在だ。

ラ・ラ・ランド』を映画館で観た帰り道、近所のさびれた商店街を一人で歩きながらほとんどスキップせんばかりの勢いで 「 Another Day Of Sun」を口ずさんでいた(声には出していない)。ミアとセブが夜景を前にタップを踊る場面にはにやにやわくわくしたし、プラネタリウムデートのシーン、そしてケーブルカーでのキスシーンはこんな素敵な恋ができたらどんなにかいいだろうとうっとりした。映像は美しく、おしゃれだ。教養がないのでいわゆるオマージュの元ネタは『ムーラン・ルージュ』『巴里のアメリカ人』くらいしかわからなかったにしても、わかっただけでも楽しかった。

恋愛は中心となる二人を外側から見る視点を彼ら自身が意識することで最も充実したものになる。そうした意味で恋愛というものをこれ以上なくロマンティックに何の過不足もなく演出した『ラ・ラ・ランド』は恋愛への意欲をかき立てるものであったのだろう。

それなのに私が観終わった後に感じたものは虚脱感だった。何かが足りなかった。私はそれを感じてから二か月ほど、その正体がなんだったのかは心のどこかに引っかかり続けていた。

まず初めに、この映画が「ショーのよう」に見えたからなのかと思った。つまり、私が見ていたのはこの映画の表層のきらびやかさだけであり、そこに内包される主題やメッセージ性を受け取ることに失敗したために虚脱感をおぼえたのだと考えた。私が何も受け取らなかった一方で、巷の人々はこの映画から深く何かを感じ取り、結果的にトレードオフとなった夢と愛、双方の一過性というか取り返しのつかなさのようなものに対し思いを巡らしていたのだと知った。

ということは、わざわざ映画館という特殊な空間に足を運んだのにも関わらず、そのメリットを享受できなかった寂しさこそがこの虚脱感の本質だったのかもしれなかった。満席の映画館で多数の目と一つの画面を共有していながら、そこに皆が共有していた想念そのものからは私が蚊帳の外だったという寂しさだ。

ラ・ラ・ランド』ではエマ・ストーン演じるミアの表情が何度も大写しになり、長回しで映し出されていたように記憶している。そうした演出がどのような効果をねらってなされたものなのかは専門家でも批評家でもない私の知る由もない。が、彼女の心を映し出す大きな窓のようにクリーンな緑の目を覗き込むことで、「いま、その場」でミアの身に起こっている出来事とともに彼女の内面に浮かび上がる感情をつぶさに見て取ることができるのは、稀有な鑑賞体験だったと思う。

すると、音楽の役割とはいったいなんなのだろう。ミュージカル映画である必然性は果たしてあったのだろうか。表情と言葉のこれほどまでの雄弁さを、映像は逃すことなく伝えてくる。だが、そもそも私が普段よろこんで見ているミュージカルのなかでさえ、音楽がどんな効果を発揮しているのかなんてよく分からないのである。そのように諦観したとき、やはり音楽の役割はエモーショナルな感覚の刺激と考えるほかないと思う。いまのところ、私には。

とすれば、この映画が観客のうちに喚起しようとした「エモさ」を、単に私は求めていなかったということなのだろう。そう考えることにして諦めるのはつらいけれど。だって夢を叶えたことと、恋に落ちた相手と添い遂げられなかったことの間にはなんの関係もない。ひとつのチャレンジが瞬く間に大女優への夢に直結した終盤の展開には共感できない。なぜなら私は夢も目標もなく、失敗するのをおそれてチャンレジすらできず、おずおずと踏み出した一歩さえ、さざなみ一つ立てることなく湖の底に沈んでいく凡人だからだ。

ミアのぶつかった壁や、後悔は、日常である。でも、なりたいと願ったものになれてしまうことは虚構だ。そこに情緒を感じてロマンに昇華できるほど私は自分の人生を俯瞰できていない。『ラ・ラ・ランド』は自分に引き寄せてみるには高みにありすぎて、客観視するには身近すぎるのだ。

私はフィクションを鏡のように使って自分を映して慰めを得ることに慣れてしまい、シンプルな希望さえ見出すことができない人間になってしまったと気がついた。