耳をすますナツメグ

だれもみてない、ほら、いまのうち

2024年2月に読んだ本とか

最近のようす

今年は去っていった2月を惜しむ気持ちよりも、冬の終わりが見えてきたことを喜ばしく思う気持ちのほうが強い。生活リズムも、服装も、行く場所も、同じことをローテーションして繰り返しているような冬だった。持っている中でいちばんあたたかい服を毎日くりかえし着ている日々は安心だったけれど、ふと春めいてきた週、明るい色の服を買ってみたら気持ちが上向いた。

わたしはいつでもひとつところにうずくまって同じことを繰り返している暮らしを好むので、強制的に何もかもが変化させられてしまうような春は、いつもはあまり好きではない。だけどこの春はなんだか新しいものをたくさん身の回りに置きたくなって、大きくて奇妙な形の花瓶を買った。

 

 

読んだ本

『サキの忘れ物』津村記久子

津村記久子短編のいいところ、本来かかわりあわないはずの他人どうしが、深入りしないながらもなんとなく「察し」を働かせながら会話して癒される、みたいなところだったと思い出した。それでめちゃくちゃ仲良くなるとか関係が深まってこじれていくようなドラマがあるわけでもなく、ただ人と人がすれちがうような会話を交わすだけなのだけれど、それがなんだか滋味深くありがたくて。そう、文字通り、ささやかだがとてもめずらしく、喜ばしい。些細な会話のひとことが、狭くて閉塞していた視野をぱあっと広げてくれるような感覚。まさに『隣のビル』という作品があるように、そういった関わりが外の世界への窓になってくれているような。

短編集のなかになぜか一編ゲームブックがまぎれこんでいてちょっとワクワクした。読者の選択によって物語の展開が分岐していくみたいなの、WEB小説では読んだことあるが本のページをぱらぱらしてメモ取りながら一生懸命読むのなんだか新鮮。ちょっと無理やり感のある進め方のところも「まあしょうがないよね」みたいなかんじで書いてあるのも笑ってしまう。でもこれってどのルート選んでも全てがハッピーエンドにはならないのかな???小説ならハッピーエンドかどうかなんてどうでもいいのに、ゲームとなるとどうしても登場人物を幸せにして終わらせたくなっている自分に気がつく。

 

『地球にちりばめられて』多和田葉子

多和田葉子の中ではかなりストーリーがわかりやすくて読みやすかったのでは。いつも幻惑させられるように言葉の海の中に漂う糸を手繰るみたいに読んでいるが、本作はロードムービーっぽいというか、メンバーが増えたり減ったりしながらいろんな街を旅するところがRPGっぽくて楽しかった。

故郷とか国境とか民族とかいうものが相対的なものであるということを繰り返し思い出させることで、境界線が薄らいでいく。われわれはみんなひとつのボールの上。何が差別的で何がそうでないという基準をどう決めるのかさえ、「中心」と「周縁」の意識から切り離せない。

しかし最後どのように終わるのかと思っていたら、まただんだんと言葉の渦に幻惑されているうちに「つづく」になってしまった。三部作だったんですね、これ。

 

『りかさん』梨木香歩

再読。十代のときからずっと本棚にあったのに、まともに読み返したのはものすごく久しぶり。開いてみて気づいたけど、おひなまつりのお話しだったんですね。意図せずして季節に即したものを読んでいた…

むかし読んだときにはただただ、他の子とはちがう日本人形の「りかさん」という存在がこの世界の別の位相をみせてくれるというアイデアにわくわくしていた記憶があるのだけれども、じっさい子どものときにはほとんど内容がわかっていなかったのではと思う。児童文学のジャンルに含まれる本だし、まだ子どもである「ようこ」の目線に降りてきて書かれている形ではある。だけどいっぽうでこんなにも、人間の「業」の話だったのかと。

著者のエッセイにいくつか触れた後で改めて読むと、人であろうと人であらざろうと、あらゆる命あるものが発する「念」のようなもの、言葉にならないレベルでの相互のやりとりみたいなものにまつわる物語をずっとしていた著者なのだなあと思う。そういうものを言葉にすることをずっと試みていた人なのだと。

 

『ひこうき雲』キム・エラン

韓国文学をいくつか読むなかで、キム・エラン氏の本は好きだなあとしみじみ思うことが多いので指名買いするようになった。これも短編集で、20代後半~30代前半の主人公を書いた作品とのことで共感しながら読む部分も多かった。

『一日の軸』

なんともいえぬ、余白のある感じが好き。貧困、若くなくて、身体もキツくて、唯一の家族も心が遠くて、生活にも汲々としているかんじ……こんな言葉でまとめてしまえばありがちにすら感じられてしまう事柄で、うまく言えないのだが、それをこの世で唯一の、替えのきかないただひとりの人生なのだと感じさせるところが好きだ。その人の弱み(この話の場合は脱毛症で落武者みたいな頭髪になってしまったこと)が、いっそ世界を颯爽と歩くための武装みたいに思えるところが好きだ。

『キューティクル』『ホテル ネアックター』

『キューティクル』を読み、ぜんぜん特別じゃないけど自分の働いた給料でちょっと日常をランクアップして、そうし続けて生きられると信じていたい「わたしたち」のための話だ………!と思った。「羞恥のブーケ」を共有できる友の存在が効いている。そうそう先輩とか、大学時代のライバルとか、そういう人ばっかりみてると折れちゃうよね……共感の嵐。

などとおもいながら次の『ホテル ネアックター』を読んで、ああキューティクルの裏返しや……してやられたり、と思った。『キューティクル』が光の友情ならこっちは闇というか、でもどっちもこういうのめっちゃあるよな…………と遠い目をして具体的な経験を思い出しそうになる。たぶん女どうしの友だち関係を書くにあたって、『キューティクル』だけを書いても『ホテル ネアックター』だけを書いても嘘になるよなと思う。

でもこの『ホテル ネアックター』みたいにこの後絶対絶縁するしかないでしょ……と思える女友達どうしが意外にもなんとか修復できたりすることもあったり、いやいやそれでもやっぱり無理なこともあったりする……というわけのわからなさが友だち関係の面白いところでもあり、苦しいところでもあるよね……。

『三十歳』

実際の社会的事件をもとにしてるということを訳者あとがきで読んで衝撃。IMF危機、経済的階級の固定化という社会的背景があって、ただでさえ割を食っているはずの若い世代の経済というか人生というか人間としての尊厳そのものを搾取していることへの怒りを感じる作品だった。
「マルタバイト」というどきっとする言葉も知って思わず真顔になる(第二次世界大戦中、人体実験をして兵器開発をおこなっていたことで知られる大日本帝国陸軍731部隊が捕虜の外国人を「マルタ=丸太」の隠語で呼んでいた事実からの隠語だそうなのだが、それが現代の韓国国内でいまだに通じるスラングになっているというのが現実なのである)。読書室みたいな若者の夢を人質に「囚人」化する環境が当たり前みたいに存在していることが、社会全体の、若者の人権にたいする軽視を物語っているようだ。
……というところまで思い至らせる語りのうまさにもまた感嘆せずにはいられない……

 

 

『韓国文学の中心にあるもの』斎藤真理子

近年わたしも韓国文学にひき寄せられて読み続けることが多かったので、第一人者ともいえる斎藤真理子さんの単著ということでものすごく楽しみにしていた。韓国の歴史(それも第二次世界大戦以降)について自分が知らなすぎるということに衝撃を受ける。中上健次の「ああ、なんでこんなに大きな悲劇を知らなかったんだろう」という発言が引用されているけど(p.208)、まさにこの本を読んだわたしも同じ気持ちである。

現代における韓国文学は、地理的にも文化的にも近しいからまるで自分たちの物語のように感じながら読んでしまうし、もちろんそういった読み方は間違いではない……というか、むしろそうできることが文学の力であろう。が一方で、となりの国に生まれ、文化の力を通して興味を持てたからこそ、見過ごしていられない事実があるのだと知った。

食べ物はもちろん、チョンセや半地下、読書室といった住まいの事情など、生活に密着した部分の差異は小説や映画・ドラマにおいても表面的に書かれるけれども、底流に暗黙的に流れていた大きな歴史の記憶のようなものを、知っているのといないのとでは大きく違う。

現在に近いところから過去に遡っていく構成もわかりやすい。記憶に新しい大統領の弾劾やセウォル号事件のような大きな社会問題の表面化、遡ってはIMF危機という甚大な経済問題、さらにその以前には朝鮮戦争、そして韓国を植民地化していた日本の責任……

自分たちの選択ではない政治的理由で国が分断されてしまうとはどういうことなのか、きのうまで暮らしていた都市が突然戦場になってしまうとはどういうことなのか。

この本には本当に山ほど、知らなかった、あるいは知っていたとしてもわかっていなかった歴史的事実が書かれているが、知らなかったことわかってなかったこと自体を恥じるのではなく、どうして我々は忘れているのか、引き出しにしまいこんでいるのかという話を、著者は同じ目線でしてくれている、と感じる。

第五章で強調されていた「選択させられること」の重みは、すべての人生にとってひとしく圧力として存在するものかもしれない。でも、半島を生きる人にとっては南北の分断という歴史があるからこそ、よりいっそう重くとりかえしのつかないものとして見えているのだろうか。同じ言語を話す人が、突然まっぷたつにされ、未来も見えないままに行った選択が1/2の確率で命運を分けてしまった、そんな記憶が現代の大都市ソウルに二重写しになっているのだとは。

ものすごく似ているが、全く別の道のりを歩んできたとなりの国。その文学の力強さに触れ、わたしたちは今では力づけられている。

 

 

舞台

今月は『オデッサ』を見ました。

 

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