河島英昭訳(岩波文庫)、渡辺由利子/関口英子訳(光文社古典新訳文庫)を両方読みました。というのも岩波文庫版を「夏になったら読もう~」と思ってあたためていたら、ちょうど夏に新訳が出たので……。
光文社古典新訳文庫の解説がかなりおもしろいのですが、確かにこれを「悲劇的な恋愛の物語」というのはしっくりこないかも。パヴェーゼが数ヶ月後に自死したという事実が、悲劇的な読み方に影響しているとは思うのだが…。最後にジーニアがアメーリアの手を取って「連れてって」っていうとこはこれ『ずっとお城で暮らしてる』と同じエンディングだなと思ったんですよ。(読み味はだいぶ違うけど。)完璧でない互いを知りあっていて、それでも続いていく関係。シスターフッドや友情と言うのもわたしにはまだちょっと違和感があるのだけど…。
ジーニアがグイードに恋していたのは確かだと思う。だけれど同じくらいアメーリアにもあこがれに近い気持ちを持っていたと思う、そういうあこがれに近い気持ちを抱いてアメーリアのそばにいるうちに、ただひとりの完璧な美しい女ではなく狡さや意地悪さも持つ一人の人間であることを知っていく過程も面白かった。
主なストーリーの軸としては男女の恋愛を描きながらも、それだけにとどまらない、他者との関係のままならなさがそこにあると感じる。特に異性とは、恋愛を介さなければ、あるいは関係に名前をつけなければ一緒にはいられない哀しさがある一方で、名前なんてつけなくても軽やかにその関係の密度や色合いを変えながら一緒にいたりまた離れたりできる女どうしの関係。
そう考えると、16章でアメーリアがいう「みんながそろうと、いつもこんな感じね」「ほっとする」こんな感じをグイードは、ロドリゲスは感じられていたんだろうか?と思ってしまう。わたしにはグイードもロドリゲスも、悪い人間にはちょっと思えない。女の胸を丘に見立てて絵に描いて消費しようとするのを芸術だと信じて語っているところなどは気持ち悪いが、画家なんてそんなものだろうし、それもそれで本人なりに画家とはどんなものかというロールを演じようとしているようにも思えてかわいらしい。アトリエでカーテンから顔だけ出して「チャオ」とか言ったり、ひょうきんな顔をしたりするグイードはちょっとおもしろい。昼まで寝てたばっかりに気まずい場に居合わせて、裸でモデルになって泣いてるジーニアにだまって靴を渡してくれるロドリゲスも確かにそんなに悪いやつじゃない。
ナタリア・ギンズブルクの『ある家族の会話』にこのパヴェーゼが出てくるところを読み返したのだが、
「彼の長所のなかでも最もすばらしいこの皮肉っぽいものの見方」*1
といったところを読んで、やっぱり『美しい夏』と作者の自死というのを結びつけずに読むというのも、これはこれでわたしには難しいなと思った。(この小説で、パヴェーゼがさくらんぼを食べながら家に来ると書いてあるところが、なんだかすごく好き)
『美しい夏』のなかでもジーニアの兄(グイードだったか)は兵役についているというような描写もあり、社会的なロールにとらわれる男性ジェンダー/自分のままでいられる女性ジェンダーという対比はあるように思う。そういう何らかの役割に囚われなくても関係性を結べる少女たちを、羨ましく見ているようなところがあるのではと。そのかわり、彼女たちの身体が消費されるものだという話でもあるわけだが、その点が傷をともなう湿っぽさがなく、カラッと忘れてしまえるようなユーモアでもって書かれている気がする。
*1:p.258/『ある家族の会話』白水Uブックス

