耳をすますナツメグ

だれもみてない、ほら、いまのうち

インポッシブル・アーキテクチャー /国立国際美術館

奥行きよくわからないですちゃんが観る建築

立体把握能力の低いわたしのこと、はじめは難解で畑違いのところに来てしまったのか…と思ったのだが、会場を歩きすすむにつれて興味のアンテナがぐんぐんと引き込まれていく。本職の建築家が本気で構想した、空想の挿絵でしか見たことがないような数々の建築物たち。資料は設計図やデザイン画だけでなく、模型や立体CGもあるので、わたしのような奥行きよくわからないですちゃんでも見やすく、リアリティを感じられる。

このインポッシブル・アーキテクチャーという展覧会は文字通り、政治的事情や金銭的事情、技術問題などにより実現しなかった建築物の資料展示が中心になされている。たとえばコンペにより実現しなかった会議場や観光複合施設などのように。

一方ここで示されている「インポッシブル」の意味は他にもある。建てようとしたけれど無理だったのではなく、そもそも実際に建てることを目的としない建物を構想したというものだ。その計画を覗きみることで、わたしたちは建築という表現や役割について考えることになる。そしてそれこそが、まさにこの資料展示がアートとして成立している理由にもなっている。

 

そこはわたしにとってどんな場所か

個人的に俄然興味が湧き始めたのは、川喜田煉七郎という建築家がソビエト連邦のコンペに提出したハリコフ劇場案のあたり。個人が音楽に没入するために完璧に個別化された座席…とキャプションにはあるが、実際どう実現されようとしていたのかという具体的なところは説明を読んでもよくわからなかった。ただ、大勢の他人とひとつのおなじ空間を共有するためにある今日の劇場の目的とはかけ離れた時代背景が読み取れる。つまり、芸術を個人で楽しむという行為が今ほど一般的ではなかった…むしろほとんど不可能だった社会で、それを可能にしようと考えられたものなのだろう。あらゆる娯楽が個人体験に帰するようになった現代、あえて他人の存在を感じるために人びとが劇場へ足を運んでいることを思うと隔世の感がある。

なお4000人を収容するために各座席階層へ直通の六基のエレベーターを用意したり、宝塚大劇場の銀橋からヒントを得た花道を用意したりするなど、現代日本で作っても話題を呼びそうな斬新さのある建物だ。

 

身近である、という点で言えば、安藤忠雄がひそかに中之島公会堂の改装案を考えていたというのも興味深かった。

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既に改装工事を終えて観光・フォトスポットにもなっている大阪中之島の中央公会堂。安藤忠雄のアイデアは既存の装飾的な洋風建築の外観はそのままに、内部にタマゴ型のホールをつくってしまうというものだ。実際は創建当時の内装が再現されているし、安藤氏がどういった意図で構想されたものなのかは不明だが、キャプションでは、これが彼の代表作である地中美術館などと比較されていた。既存の環境を活かしながら独特の無機質な新空間を構築することを得意とする安藤建築、という文脈で説明される。確かに、装飾と素朴の対照的なモチーフが融合した建築物は唯一無二のものとして、そこを訪れる人びとの感性を良くも悪くも刺激せずにはいられないだろう。

ちなみに当展覧会場の美術館から徒歩数分圏内で現実の(ポッシブルな)中央公会堂へ訪れられるのもおもしろい。

 

タマゴ型といえば、余談だけれど1970年の大阪万博で実装されて海外から注目を集めたという空気膜構造の建築というものをこの展覧会で初めて知った。文字通り風船のように内部気圧を高めてドーム型に壁を膨らます建築技術のことらしい。インポッシブルな例としてはこれを用いたスポーツ施設のイメージ図が紹介されていたが、気圧を高めるという時点で内部はスポーツに適した環境になるのか…?ということは疑問だった。

 

ザハ案に感じるものがなしさ

展覧会のクライマックスにはザハ・ハディド氏の新国立競技場案も登場する。

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ザハ案の新国立競技場の展示室では、建築家本人のコメントやキングファイル何冊にもなる大量の会議資料も寄せられ、「インポッシブル」になってしまったこの建築物のために、既にいかに多くのリソースが費やされてきたかが視覚的に明らかにされている。

だが最もインパクトが大きかったのは大スクリーンに映し出されているプレゼンテーション用動画だ。この競技場に平和の祭典のため世界中から観衆が集まり、歓声をあげながらスポーツに盛り上がっている様子を喧伝する。高揚感を煽る演出が、いまとなっては虚しさと喪失感を物語る。

 

物質的に存在するものは、精神から遠い

空想科学小説の挿絵や絵本のなかにでてくるお城のように、実現を目指さずに夢想した建物*1、二次元平面の設計図でしか表現し得ない図面など(エッシャーの無限階段を思い出す)をみていると、二次元とは三次元より人間の精神に近いものであるなあということを久しぶりに考えたりもした。よくリアルな他人と恋愛関係を持ちたくない人が社会への説明として「二次元にしか興味がない」と冗談まじりに言ったりしているが、三次元ではできないことも二次元ではかなえてくれる。

会田誠山口晃がなかばおふざけで作った、景観の悪さが問題視されている首都高に超急勾配の日本橋を架けるアイデアや、新都庁を天守閣にする図(21世紀的複合建築として、石垣部分はガラス張りのビルディングになっている)のイラストが最後に展示されていたけれど、流石に皮肉がきいている。これに限らず大型建築物の使用イメージ図にちらほらと小さい人間が描きこまれているのがよくあるが、けっこうかわいい。昔『ウォーリーを探せ!』で心ときめかせていた年齢に帰る思いだ。この首都高日本橋図にも、登山セットまで用意して日本橋を渡る者、頂上付近でピクニックをする者、橋とは全然関係なく犬の散歩をする者など描き込まれているのが見られる。本題であろう批評性とは関係ないのだが、細部も目に楽しい。

 

 

コレクション―現代日本の美意識

時間があったので同時開催のコレクション展も見る。廃墟となった映画館や刑務所、廃棄物を題材にしたアート、かつて植民地だった場所の写真などの作品があって、それぞれの展示が相互に頭の中の連想を刺激するかのようだ。実現されず、この世についぞ形をなすことのなかった建築物と、役目を終えて朽ち果てる物質の対比。

 

久しぶりに美術館に行った日記

土曜日、美容院から待ち合わせまでにぽっかりと時間が空いたので、通勤の駅でポスターを見かけて気になっていたこの展覧会を見に行った。最近は美術館に行ってもだれかと一緒とか、混んでいるとかひとりでゆっくりすごすということが少なくなっていたことに気がつく。それはそれで別の思考の刺激があっておもしろいのだが。自分なりの速さで考えながら、程よく静かで、程よく他人のいる空間を回遊していると、頭の中のどこかがほどけて、新しい知識や見慣れぬ分野への興味が広がってゆくようだ。2時間くらい歩き続けたことで腰は痛くなったけれど、頭のコリがすこしは取れていればいいと思う。

*1:1970年代?頃においては現実のアンチテーゼとして不可能なアイデアを提示するのがトレンドだったらしい?ちょっとメモを取っていなかったので不正確だが。