耳をすますナツメグ

だれもみてない、ほら、いまのうち

2019年12月に読んだ本

あけましておめでとうございます。年間の振り返りをやりたいといいつつ、12月の後半から本を読むことへのやる気がいささか失せつつあり、12月に読んだ本は3冊。

正月休みの空気でぼやけた頭で顧みれば、平日は仕事に追い詰められ、休日は忘年の会やクリスマスの買い物、観劇などにうつつを抜かし、就寝前には疲れ果ててベッドの本を開いたまま眠りに落ちる日々、だったような。

わたしはなぜ本を読むのかといえば、新しいものに触れて思考のきっかけにしたい、という思いがある。脳の作業机に置ける量の都合にあわせて脳を活動させなければならない、ということは残念ではあるけれど、机はできるだけ長く広く使っていきたい。本を読む量は落とさないように、でも同じような本ばかり読まないように、というのも今年は意識したい。

 

今月の読んだ本

川上 未映子『おめかしの引力』 (朝日文庫
おめかしの引力 (朝日文庫)

おめかしの引力 (朝日文庫)

 

2008年から2017年、と10年近い期間にわたるファッション誌連載のまとめに加え、文庫化にあたって2019年時点の江南亜美子さんによるインタビュー100ページが加わった。語られるテーマも文体も、親しみやすい「あるある」的なおしゃべりめいたものからファッションあるいはモードと個人の関わりについて深堀りしたものまで幅広くカバーしている。

わたしは単行本をすでに読んだことがあったのだけど、今回改めて読み直してみて、見た目を装うことについて語ることに後ろめたさ(あるいは、経験を重ねても拭い去れない自信のなさ)のようなものを感じていたことに気が付く。

目に見える欲望。それは生きる糧となり、心を豊かにする原動力だとわかっている。でも同時に、無自覚でむきだしの欲望そのものには後ろ暗いイメージがあるのだ。この欲が他人の目にあばかれてしまう恥ずかしさ、あるいはあからさまな他人の欲に気づく後ろめたさは、もたらされる愉しみと分かちがたく存在している。

一方、これほど引力のつよく影響力の広範な文化について語るとき、欲望のパッケージングやある種の割り切り、すぐそばにある疑問符を意識し続けること、といった行為の選択、つまりどのように語るのか、という点には、個々の知性が表出してしまうものでもある。それはもっと堂々と語ってもいいんだ、という目覚めでもあるし、もっと語られている文章を読みたい、という新しい欲の発見でもある。

読了日:12月01日

キム グミ『あまりにも真昼の恋愛』 (韓国文学のオクリモノ)

だれもが知っていることばの組み合わせかたが目新しく面白いと、唯一無二のいとおしい世界に出会ったような気持ちで本にふせんをたくさんつけてしまう。

「誰かが箱からティッシュをさっと取る気持ちいい音にも、ピリョンの心は崩れてしまった。」

「そこはなんというか、とてつもなくとうもろこしのようなことがごった返していそうな暗い都市だった。」

「まるで逆立ちをするように小さな部屋を両手で支えて朝と昼を過ごしていた男が、星が見える時間になるとのろのろとトイレまで来て星を眺める姿が頭に浮かんだ。」

こんな文章に、わたしの心はついつい惹きつけられる。

語られる物語には、ままならない世の中に対する不条理さを感じるものが多いのだけれど、こうした文体のおかげでそうした苦難からは少し距離を保ち、飄々と生き抜いていく強さを感じもするのだ。

あまりにも真昼の恋愛 (韓国文学のオクリモノ)

あまりにも真昼の恋愛 (韓国文学のオクリモノ)

 

読了日:12月03日

 

イアン・マキューアン『贖罪』下巻(新潮文庫)

ブライオニーが無邪気だった子ども時代を語る上巻(第一部)からは予想もつかなかった後半の展開。第二部は少女時代の彼女が自分でも虚構と現実の区別がうまく付けられないまま裁判所送りにしたロビーが、第二次大戦下の戦場をダンケルクに向かう道行きから始まる。

途中まではこのタイトルを、だれもが背負ってしまう罪の意識のことを言っているのかと思いながら読んでいた。ロビーがダンケルクで見過ごしてきた人びと、埋葬できないままになった遺体。でも、たぶんそれだけではない。

贖罪 下巻 (2) (新潮文庫 マ 28-4)

贖罪 下巻 (2) (新潮文庫 マ 28-4)

 

おとなになったブライオニーの「語る」という行為を贖罪と呼べるのは、架空の世界の出来事が真実と同等であると信じられる人だ。虚構の世界の中で小説家は神となるが、神は罪を贖わない。動かしようのない過去の事実は厳然として存在する。それでも、彼女の人生にとっては、常に形を変え続ける原稿は意味のあるものだった。形になった記憶ともいえるそれを再構成し続けてきたのが彼女の生涯だったとするのなら、逆に言えば、それを語ることで彼女は自分の人生を意味あるものに変えようとしてきたのかもしれない。

イシグロの作品群や先月読んだアトウッドの『昏き目の暗殺者』 、バーンズ『終わりの感覚』などの系譜に連なる先行作品とみなしていいのか、それとも近い時期に読んだせいでわたしの頭が勝手にそう捉えることにしているのかはわからないのだけれど、この小説においても文学が果たしている役割は、「語り手が自分の人生を語りなおす行為こそが、語ることの意味である」という一つの道筋だと思う。*1

読了日:12月11日

 

▼2019年11月の読書メーター
読んだ本の数:3冊
読んだページ数:970ページ

*1:ついでに、先月わたしが観たミュージカル「ビッグ・フィッシュ」の原作となったティム・バートン監督の映画「ビッグ・フィッシュ」もこのようなメッセージを含む作品だったような気がしているが、それを語る元気はいまのわたしにはない。