耳をすますナツメグ

だれもみてない、ほら、いまのうち

きたなめのおっさん

この冬はいままでの人生でいちばんたくさんボーナスをもらえた。今年はたまたまいろいろなタイミングが重なって、だれかの頑張りと幸運に乗っかるようなかたちで報酬が増えたというだけのことで、来年ももらえるかは分からないし、わたしの実力も能力も見合うものだとは思えないのだけど、ひとつの記念にしようと思ってちょっと浮かれた買い物をした。

帰り道、クリスマス仕様のキラキラした大きな紙袋と、デパ地下で買ったお惣菜のローストチキンの入った袋を持ってエスカレーターに乗っていたら、後ろからきたなめのおっさんにわざとぶつかられた。

大阪のエスカレーターには右側に寄って立たなければならないという暗黙的ルールがあり、荷物の多かったわたしは一瞬、はみだしてたからかな?と思ったのだけど、どうみても前後と比べてはみだしてはいないし、わたしの前に立ってた小さいバッグの女の子二人にその男はあきらかにわざとぶつかっていて、さらにその前に立っていた男性の横はふつうに歩き去って行ったのだった。

うわ、最悪、ってキレたかったけど、状況を理解したときにはエスカレーターはとっくに途切れて、汚れた服を着たおっさんはひとごみのなかに消えていた。

それでわたしは、明らかにわたしよりも金を持ってなさそうでその女の子たちよりも不幸せそうに見えるおっさんの、人生で味わう不幸の総量のことを想像し、仕方のないことなのかと思うことで溜飲を下げることにした。

そして思い出す、他人の身だしなみがどうであるかで無意識に人に優劣をつけようとするわたしの醜さを。だれかが自分より不幸なのか、金を持っているのか、きれいなのかどうか。

「ぶつかられる」という一種の暴力から身を守りたい瞬間的な反応で攻撃的になる思考、突然向けられた悪意へのショック、同じ街にお金がなくて辛い思いをしている人がいるのに見ないふりをして自分だけ浮かれていた罪悪感、だからといって突然他人に(しかも自分よりも弱そうな人を選んで)ぶつかるのが許されるわけがないという正義感。おっさんのイライラした気分とわたしがわたしを甘やかすことは、関係ないという気持ちと関係があるという気持ち。そういうことを思いながらも、わたしはどうすればよかったのかわからない。

芋づる式に嫌な人間が出てきて、これが自分だと認めたくないけれど、こういう自分の嫌らしさに蓋ばかりしているのはより悪い。他人を攻撃する人間よりも、人の弱さや誤りを許さない人間のほうが恐ろしいと思うから。

わたしは他人を見下すことで精神の安定を保とうとする人間だ。残念ながら。しかも、その人たちに手を差し伸べようとすることすらしない。そういうところが醜いとわかっていてなお、かたちを変えていつも同じことを繰り返してしまっている。

それなら、そのかわりに何をするのか?何か別のかたちで良いから、わたしのできることで良いから、借りを返さなくてはいけない気がする。

これが別の時代の別の世界なら、わたしのすべき行為は紙袋の中に入っていたチキンレッグと左頬を彼に差し出すことだったかもしれない。でも今の日本社会でそんなことをするのはおかしいと思う。なぜ「おかしい」のかといえば、それは多くの人の賛同を得られないからだ。正しさは賛同の数の多さによって担保される。

わたしは何をするのが正しいかわからない。