耳をすますナツメグ

だれもみてない、ほら、いまのうち

DULL-COLORED POP 福島三部作 第一部『1961年:夜に昇る太陽』

1961年、それは福島への原子力発電所の誘致が決定された年。福島県双葉町の住民たちが立ちのきを決めるまでの数日間を描き、原発誘致に関わる人びとの葛藤を浮き彫りにする。

戦後まだたったの16年、大戦の記憶も生々しい。立ち退き依頼のため現地の村を訪れた東京電力の社員が「私は、広島の出身です」というなり周囲は慄き、「悪いことを聞いた…」と心底から詫びる時代。それを発する本人のニュアンスも、そしてそれを聞いた周囲の反応も、現在では考えられない空気感がある。

これは福島を題材にした芝居だけれど、制作は観客が身構えずにそのテーマを受け止められるようさぞかし心を砕かれたことだろうと思う。芝居の中には笑いも多く、子どもたちや悪ふざけや十代の若い青年の甘酸っぱい青春の一ページが彩りを添える。重要な主題を扱っているというだけでなくて、物語のなかに入り込むことが魅力的に思える。

原発がよいものであるとか悪いものであるとか、芝居のなかで明確な主張はない。ただ、いまのわたしが想像するしかできない1961年の福島の、そして日本の雰囲気がこの劇場という場所に再現されている。

青年は田舎から都会に出ていこうとするけれど、メールやインターネットがないから、家族や恋人との離別はもっとずっと決定的になる。日本はこれからどんどん発展していく、とだれもが思っている。それなのに田舎は貧しく、しかも冬場になると町に仕事がないから、父親は出稼ぎで家族と一緒に暮らすこともできない。子どもたちだって高校を出たらさっさと働いて家族を助けるのが義務みたいなものだ。いくら頭がよくて東京の大学を出ても、都会で就職するなどとんでもない。そもそも金がない、人手がない。

そんな小さな東北の町に舞い込んだ原発建設計画。この経済成長の波に乗り遅れてはならない、と皆が思っても無理はないのだ。原子力技術に些細な懸念はあるにしても、まだ今の日本の技術レベルでは時期尚早だと言う人がいたとしても、だれもが未来を信じている時代だから。課題は未来の日本人が解決してくれる、そんなふうに思える空気だったから。

主人公たかしはおそらく戦後生まれ、第一次ベビーブームの世代で、東大で物理学を専攻することを目指している。真面目で頭でっかちなところはあるが情熱的で純粋な青年。これから日本がどんどんよくなっていく、そのために自分の能力を全身全霊で役立てたいと心の底から思っている。一方、その弟は田舎に残って兄を応援し、地元を盛り上げたいと願う。こうした構図はいまにも通じ、地方から東京へ出て行く人や、逆に地元に残る人生を選択した人びとの共感を誘うだろう。けれど現代と少し違うのは、彼らに自己実現の意志があまりないように思えるところだった。自分が出世したいとか、都会に嫉妬するとかいうよりも、自分たちの住むコミュニティを良くしていきたいという純粋な思いに溢れている。日本の未来に貢献したい、故郷の町をもっと豊かにしたいと、ためらうことなく言い切っている。

たかしの祖父が孫の上京に反対するシーンなど、地方の因習に囚われた老人の頑迷さを感じさせることもできたのだと思う。ただ、それに終わらせないところにこの話を演劇として観る意味があった。子供に家にいろと言う者には、そう言うなりの考えがある。本当は若い者の能力や可能性を信じているにしても、自由にしてやれないなりの事情がある。そしてだからこそ、たかしの「田舎は自分ではなんも決めらんねぇ」という言葉が重い。金がないから、周囲の目があるから、それしか方法がないから、だからもっと大きなものに身を預けることしか、知らぬ間に選択肢はなくなっている。

自分がもしこの町に生まれ育っていたなら、やっぱり原発建設に反対することはできないだろう。長いものにまかれたとか、そのときだけの利権だけを考えていたとかいう思惑が、なかったとはいわない。でも将来を生きる若い世代のことを考えたとしても、やっぱり原発は建っていただろう。すこしのリスクを取らなければ経済的成長はかなわない……たとえそのリスクを、地方にだけ押し付けることになったとしても。「地震が少ないから」という理由で選ばれた、その土地に。

 

辺縁に負担を押し付ける中央の傲慢。それはすなわち、体制のために個人の自由を押し殺してきた事実の繰り返し。戦争が終わっても、本質は何も変わっていないとわたしたちは思い知る。

でも、それは同時に社会が持続するために、ある程度は必要な機能でもある。だからこそ、そこにある無数の個人の葛藤を切り捨てることは許されないし、簡単に答えを出そうとする社会ではあってほしくないと願う。