耳をすますナツメグ

だれもみてない、ほら、いまのうち

エリザベートってこんな話だったのかな2019

 

 

この物語において幾度も語られる「自由」ということば、その対極にあるのが「生」なら自由は死と読み替えることができるのかもしれない。とするなら、自由を求めたとされるエリザベートをつなぎとめているのは、自由の対局にある地上の愛だと仮定する。

地上の愛はしがらみや誤解や裏切りや対立にまみれており、自由とは程遠い。むしろ愛を継続させるために、わたしたちは喜んで自由を差し出そうとするし、無意識的に愛する者の自由を奪いたくなる。そういうことが往々にしてある。それは必ずしも悪いわけではなくて、愛は死に向かうベクトルを逆に向かおうとする欲求でもある。

だからこそルドルフはだれからも愛されてないと感じた瞬間、死を選ぶ。この物語にマリー・ヴェッツェラの存在が省かれている理由のひとつはそこにあるのかもしれない。それは、愛が自由の対極にあるものとして、つねに結婚や家制度とともに存在しなければならない息苦しさを示すためなのかも。(シシィの盟友ルートヴィヒ2世が出てこないのも、もしかすると同じ理由?)

エリザベートが何度もトートと出会いながらも自ら生きる意志を示し続けられるのは、夫の裏切りや失望があってもまだこの世界(あるいは家族)を愛し、彼とわかり合うことをどこかで信じているからだと思える。

ルドルフの墓の上で死を願うエリザベートに向って、トートが「まだ私を愛してはいない」と言いはなつシーン、わたしはずっと意味が分からなかった。だけどまだ彼女がフランツを愛していたとするなら、そこにはまだ夫との和解の余地があるというあらわれとも受け取れる。彼女が子を見捨てて死なせた悔恨を、最も深く共感できる可能性がある相手がいるとするなら、それは夫にちがいないから。

けれど彼女は愛しているはずの他人と分かり合うための努力をしない。

民衆が社会の大義よりも個人の自由を重視する傾向は、作中で表現されている19世紀から現代の今も変わらない、というより戦争の世紀である20世紀を経てなお加速を続けている。それは常に悪いわけではない。たとえば「ミルク」で訴えられるように、強者の我儘のために弱い民衆が搾取されるような社会はあってはならない、たとえその社会において権力者が正義であっても。

そのはずなのだけれど、しかしその傾向が、個を重視するあまりに他者との分断を深める側面も持ってしまっていることも否めない。作中ではそれは「HASS」のように不満を燻らせた民衆の暴走として描かれる。そして、かつて繁栄をきわめた帝国もまた、その内部に含まれる諸民族の独立意識の芽生えとともに瓦解する。エリザベートの自立が彼女自身の孤独を深め、周囲との不和を招いたのと同じように。

繰り返していうけれど、個人の自我の確立や欲望の自覚、自由への希求は決して悪いことではないはず。にもかかわらず、個人の世界に閉じこもった人びとの形成する社会が少数派や弱者の排除へ向かっている現代と、愛する者の弱い部分に向き合おうとせず鎖を断ち切ったエリザベートの人生とが重なって見える。

これってもしかすると世間では一般的な見方なのかもしれない。でもわたし自身は2016年に初めてエリザベートを観て以来、これをずっとエリザベート個人の話としてしか捉えたことがなかった。だからこんなことを思ったのは今回が初めてで、それはたぶん意識的・無意識的に最近もやもや考えていたことが「こんな話を見たい」という思いになったものだと思う。