耳をすますナツメグ

だれもみてない、ほら、いまのうち

ミュージカル「ロミオ&ジュリエット」2019感想

「ロミオ&ジュリエット」の思い出

数年おきに同じ演出家の手によりキャストやスタッフを変えて何度も再演されているミュージカル版。

 

わたしは2013年、初めて自分のお金でミュージカルのチケットを買ってロミオとジュリエットを観に行き、そこで王子様を見つけた夢みる少女になった。まったく馬鹿みたいな物言いだと思うのだが、若くて容姿端麗な男性をつかまえて王子だの貴公子だのと祭り上げるマスコミを冷めた目で見ていたくせに、わたしがそこで見つけたのは王子様だとしか思えなかった。「女たちは僕のことを追いかけてくる、何もしなくても」というのが彼の第一声であった。そのことばを聞いた瞬間に、意味と声と容姿のすべてが渾然一体となり説得力の奴隷となった。ロミオの夢、ロミオの快楽、ロミオの苦悩、ロミオの衝動、ロミオの憂鬱、申し訳ないがその日にかんしてはロミオのことしか見えていなかった。まだ、同じ舞台を何度も見に行くという発想すらなかった頃のことである。

 

その日ロミオを演じていた城田優さんはもはやロミオ役をすることはないけれど、ミュージカル版の甘やかな旋律の虜となり再びチケットを買ったのが2016年のことだった。そのときはロミオが古川雄大さん、ジュリエットが当時ミュージカルデビューだった生田絵梨花さん。生田さんは可憐で箱入り娘のジュリエット役にぴったりだったけど、ジュリエットの死の場面で「段取りを頑張ってこなしている」感じがすごく出ていて初々しかった。このときはロミオとジュリエットの二人だけでなく、キャピュレットの親たちも見る余裕ができていた…と同時に、そもそも親たちのキャラクター造形そのものもかなり強烈に印象に残っていたのだと思う。そのため、親と子、世代間の対立という構図を俯瞰して眺められたというのが2016年の観劇の記憶。とはいえ当時はベンヴォーリオとマーキューシオの見分けすらついておらず、マーキューシオが死んで以降の展開のみ、ロミオの友だちイコールベンヴォーリオ、という思考回路で見ていた。

 

ロミオ&ジュリエット2019

2019年は、ジュリエットがトリプルキャストになるので全員を見られるよう3回分のチケットを取った。この3年の間に原作も読み、日本初演版のCDも聴きこみ、ロミオとジュリエット以外のキャラクターのポジションにも少しは理解を深めて臨んだ。

特に2回目の観劇では、前から5列目以内の良い席で見ることができたので良い思い出になった。今まで劇場で座れた中で一番舞台に近い席だ。しかも今回のロミオ登場シーンは客席降りだったので、間近に物憂い表情のロミオを見た。こんなに近づいているのにロミオの瞳には1ミリも私たちの姿は映っておらず、見えない膜があるかのように別の世界を生きている。近くで観た大野拓朗さんのロミオは一見、どこにでもいそうなふつうの男の子みたいな雰囲気で、誰の前でも心の奥の奥は見せてくれなさそうな古川さんのロミオと比べれば心やすさがある。だからロミオの歌う「僕は怖い」の意味はふたりの間でも違って見える。大野ロミオの場合は、普段人当たりよく、穏やかで、他人との争いを好まないたちの青年が、生まれながら深層心理にすりこまれた憎しみに自分でも気づかないまま、ほんのちょっとしたきっかけで爆発させてしまうことの、得体の知れぬ不安感がある。彼とともに踊る「死」のダンサーは宮尾さんも大貫さんもとても美しく、複数回観たことで、ことばを追いながら踊りを眺める余裕ができたことが嬉しかった。忍び寄る不安、唐突な喪失、運命に翻弄される肉体……。古川ロミオは、自分が誰にも心を開けないたちだと自覚して、仲間の前でもどこか偽りの自分でいようと努めている男の子だ。彼にとって怖いのは、みんなに知られたら嫌われてしまうかもしれない本当の自分で、それでも「いつか」たった一人のひとが現れたら自分をさらけ出せるのではないかと淡い期待を抱いているような青年。大野ロミオが怖いのは人間の普遍的な憎しみで、古川ロミオが怖いのは内に眠る自分自身なのではないだろうか。

「命の代償」で石井一孝さん演ずるヴェローナ大公がロミオに追放を言い渡した後、舞台に二人だけ残されたときに大公がロミオに注ぐ眼差し。あれがロミオ自身の最も恐れていたものだったとしたら……。ジュリエットに会えないということ以上に、決定的なアイデンティティの崩壊がそこにある。峻厳さ、憐憫、優しさ、そのどれもが読み取れる大公の表情が、出番の少ない役ながら深い印象を残していた。あの顔を間近で見たとき、三階席からの今までの観劇って、感情を記号でしか読み取れていなかったのだなあと思い知ってしまった気がする。

逆に1回目の観劇で、3階席からでもオペラグラスがいらないくらいの存在感を放っていたのがキャピュレット夫人の春野寿美礼さんだった。実は春野さんを舞台で見るのはそれが初めてで、顔と名前が一致せず、1回目を見た日に帰り道でお名前を調べたくらいだったのだが、階段の上で佇んでいるだけで、あるいは煙草の煙を天に向かって吐き出す仕草も、さりげないのにどうしてこれほど美しく妖しくまばゆく輝けるのか。キャピュレット夫人の秘密は原作にすらない、ある意味トンデモ設定であり、歌詞もほとんど説明台詞に近いのだが、強くくっきりと艶やかな歌声が不思議なほどに説得力をもって語りかけてくる。最初DVDを買うつもりはなかったのだけど、あの「ジュリエーット♬」を聴きたいがためにすぐDVDの購入を決意した。(さいふのひもがゆるい)

 

「どうやって伝えよう」の後、散々悩んだ末にベンヴォーリオがマントヴァまで来てくれたとき、大野ロミオは友の顔を見て心底救われたといったように安堵の表情を浮かべるのに、古川ロミオは再会の挨拶もそこそこにジュリエットのことを問いただして、彼女の死を聞くなり「ひとりにしてくれ…」と背を向ける。これを見た瞬間、すっかりベンヴォーリオに感情移入していたわたしは反射的にロミオひどい! と思ってしまったのだが、古川ロミオのキャラクターを考えれば自然な反応である。これがベンヴォーリオとの今生の別れになってしまったことを思えば、彼にとって可哀想なことに変わりはないが……。原作を読むとジュリエットの死を告げに来たのはベンヴォーリオではない。そこをあえて改変したところから考えてもミュージカル版の解釈として青春世界の崩壊を描きだす意図があるのかもしれないが、古川さんで観ると恋愛悲劇の色が濃く、青年の孤独な苦悩を感じて、これはこれで好きだった。

 

今生の別れといえば、今回初めて木下晴香さんをジュリエット役で見て、ああ、これは愛するひとを失った人の物語だったのだ……ということを思い出した。ロミオとジュリエットの話は俯瞰で見ると物語の構造が美しすぎるし、自分の理想像(理想の男性、理想の女性、理想の親)のフィルターを通して登場人物を見ようとすると、そこから外れている細部の歪さに引き込まれてしまうのだと思う。木下さんのジュリエットは、他人の言葉に反応するよりも先に自分の殻に閉じこもってしまうような女の子だった。「素敵な恋なんて本の中だけ」と乳母に言われたとき、葵わかなさんのジュリエットは頬を膨らませてむくれてみせるけれど、木下ジュリエットはうつむいて本を抱きしめるように抱え込む。木下さんのこの演技を見た瞬間、ああ、好き、と思った。表立って歯向かったりはしないけど、自分の中に自分の大切な世界を抱え持っている。だから死んだロミオを前にしたときの、悲しみが溢れ出すような歌声には涙を誘われずにはいられなかった。もしかすると、わたし自身の家庭環境の変化もその理由だったかもしれない。結婚してから、若くして恋人や配偶者を亡くした話を想像するときの痛みが深くなっていくのを感じる。そのとき、わたしはかつて愛する人だった体がもう動かずにいるのを受け入れることができるのかどうか。

 

ジュリエットと乳母を見ていると、嘘や秘密というのは結構重要なキーワードなのかもしれない。『快読シェイクスピア』という本を読んでいると、「ジュリエットは秘密を持ったために大人になる」と書かれていてまさに! と膝を打った。ジュリエットが唯一信頼してロミオとの仲立ちを頼んでいた乳母だが、ロミオがヴェローナを追放されるや「ロミオなんてぞうきんですよ」と言い放ってジュリエットとの決別を決定的にする。1回めのとき、3階席からジュリエットを中心にオペラグラスを追っていたわたしは、さっきまで応援してくれていたのにどうして…!? と思ったのだが、2回めでオペラグラスを外してみると、キャピュレット夫妻がものすごい剣幕で娘をパリスと結婚させようとしているのを横で観ている乳母の心情も視界に入るのだ。ジュリエットの想いを知っている一方、でも長い目で見て幸せになる確率が高いのはどちらなのか分かるだけに、悩んでいるのが視界の端にいても伝わってくるのだ。3回めに観たときにいたっては、「ロミオなんてぞうきんですよ」はほとんど乳母自身も自覚している嘘だと直感して泣きそうになる。無理に言い聞かすようにして台詞を発しているのが乳母の悲鳴のように思えて悲しい。そしてその瞬間、木下さんのジュリエットがすうっと心を閉ざしてしまったのが見えたのも。

 

ところで、原作のマーキューシオ(と乳母)の台詞は調子をこいた洒落や下ネタだらけで、前出の『快読シェイクスピア』によれば、この二人が性愛の側面を負っているがゆえにロミオとジュリエットの愛の純粋さが際立つという効果があるのだそうだ。しかしミュージカル版はそもそも宝塚でも演じられるくらいだし、現代の日本のお客さんは舞台で下ネタを連発されてもドン引きするだけだろうと思われる。わたしだってお金を払って下ネタを聞きに行くのは絶対にいやだ。そんなわけでマーキューシオはいけすかない昏い魅力を持った男といった描かれ方をしている。黒羽マーキューシオはへらへらとふざけながらもいつ何をしでかすか分からない不気味さがあり、「まるでピエロだ」というティボルトの捨て台詞がしっくりくる。根の真面目さを感じるような渡辺ティボルトとの組み合わせで見たので、もしかするとこのマーキューシオはティボルトに執着するあまりに、仇のアンチテーゼとして自分の立ち位置や性格を作り出していった子なのかもなあという感じがした。平間マーキューシオは心の奥底のところに何がしかの暗さを抱えているのに、虚勢を張ってお調子者を演じているかのような危うさに惹かれた。ふたりとも今回はじめて見た役者さんだったけど、ちょっと他の役でも見てみたいと思えたのは良かった。数年前に観たときにはベンヴォーリオとの区別もついていなかったのに進歩したなあと思う(だけど、このようなキャラクタ付けでいくのなら三浦さんはベンヴォーリオよりマーキューシオの方が良かった気もするが……)。もしかすると今回の演出でどこかが変わって分かりやすくなったからなのかもしれないけれど、見分けがついていないくらいなので前回どんなかんじだったのか覚えていないので比較できないのは残念だ。

演出といえば、たぶん前からあった気がするのだけど、舞台上で若者がスマホでメールを打つ場面は舞台映えしなくて時間の無駄に感じた。感情の表出も会話のやりとりもない、俯いて連絡事項を読み上げながらスマホを触っているシーンはほんの短時間でも演劇のワンシーンとしては苦痛だった。だからこそグループLINEを模したダンスのシーンは工夫として入れているのだろうけど、わたしは不自然な挿入に思えてしまってあまり好きではなかった。ただ、わたしのような人間が「好きではない」と思うからこそ、既成の価値観に容れられない若者たちとの間の断絶という状況を表現しているのだとしたら、そこにそれなりの意義はあるのかもしれない。しかし現代設定にするとしても、スマホ以外の小道具や親世代の思想は古風なので、目新しさ以上に違和感と呼ぶべきだと思う。

 

なんだか最後に文句を書いてしまい気持ちがしょぼくれてきたけど、この作品の音楽も、若さゆえの爆発的なエネルギーも、悲劇に終わった愛への祈りの虚しさとせつなさも、わたしは大好きだ。ちょっとした思い入れと楽しかった記憶が頭の中で散らかっている。DVDはまだ予約していないけど多分買ってしまうと思う。ただ、キャスト違いで2バージョンあるうちのどちらにするかまだ決められない。古川さんと木下さんの、苦しさを一人で抱え込む二人の組み合わせが好きだったけど、この組み合わせでは収録されていないのだ。古川さんのことは前から好きだし、葵わかなさんのジュリエットは恋愛初期のうきうきとした場面の演技が良かったから、古川・葵バージョンの方を買うべきか……。でも、木下さんの歌ももっと聴きたい。関係ないけど春野寿美礼さんが宝塚時代に「エリザベート」のトート役をされていたときのDVDも見てみたい。……などと考えていると面倒になってきて全部まとめて買ってしまいたくなる。趣味にお金が使えるっていいですね。