耳をすますナツメグ

だれもみてない、ほら、いまのうち

ミュージカル〈マリー・アントワネット〉10月14日昼公演 感想

f:id:sanasanagi:20181021121536j:plain

二日連続でマリー・アントワネットを観る。前日とはダブルキャストの配役が全員異なっていた。キャストが違ったためか二回目ゆえの余裕か、前日には聞こえなかった台詞が聞こえてくる。

アントワネットは愛人フェルセンとの逢瀬にあたってプチ・トリアノンの造営をうれしげに語り、「小作人たちは役者なのよ」という。マリー・アントワネット関連書籍を読めばいくらでも書いてあるので常識だったのかもしれないが、わたしは知らなかった。外では本物の小作人が裸にもひとしい襤褸をまとい、飢えに苦しんでいるというのに、麦わら帽子をかぶせて身ぎれいな衣服を着せた役者を使い「自然」なフランスの景色を演出する。あまりにも無神経な行為、それなのにほのぼのとした風景は確かに美しく、わたしはその矛盾に混乱する。美しさにはたしかに価値があって、そのためにはだれかの苦しみを踏みつけにしてもいいのだろうか? 他人の苦しみを、ただ知らなかったということは免罪符になるのか?

マリー・アントワネットの物語を他人事として眺めているけれど、わたしだって知らないうちに、誰かの苦しみと引き換えに自分の人生を享受している。わたしの脳裏に、今まで何の気なしに呟いた言葉で傷つけてきたであろう他人の顔が浮かび、恥ずかしさで堪らなくなる。しかし、わたしはどうすれば許されるというのか。

フェルセンでなくても王妃をたしなめずにはいられないだろう。そしてわたしは、孤独の痛みを歌う彼女に知らず知らずのうちに心を寄り添わせる。生まれながらにして他人とのコミュニケーションは命令と服従が中心を占め、自分の心地よい言葉を述べる人間ばかりを周囲にはべらせることでしかコミュニティを築けなかった王妃。みずからの求めているものが愛なのかも分からずに、このひとはいまも一人ぼっちでいるのだ。孤高の人でありながら孤独に苦悩する女を演じる花總まりさんがあまりに美しく、さみしげで、憧れとせつなさが止まない。

このシーンをはじめ、古川さんのフェルセンは宮廷の外がまるで見えていないマリーに苛立って顔をしかめる表情や苛立ちにリアリティがある。マリーのことは愛しているけれど、盲目的ではない。世界を客観的に見てもいるので、ヴェルサイユのなかの世界しか知らない彼女に苛立ちも覚えるのだ。プチ・トリアノンでマリーを置いて行ってしまったあたり、こちらは完全にアントワネット目線で見ているので「あなたの所有物ではない」といった台詞に他人らしいままならなさを感じる。そのままならなさが、恋愛の相手としても魅力的な印象を抱かせる。 

パンフレットに載っている記事で、オルレアン公役の吉原光夫さんがさらりと述べている「無知は罪だと思っている」というコメントにもドキリとする。わたし自身は無知の知という言葉の意味を本当に理解できていると思えないけれど、苦しいのは無知な人々の無知の責任は本人自身のみのものではないということ。それは教育の罪でありメディアの罪であり社会の罪でもあり、ひいてはそれらすべては我々みんなに跳ね返ってくる問題である。だからあまりにも辛すぎて蓋をしたいし誰かに押し付けたい、だがそうすればするほど新たな罪を生むだけ。頭の中で考えても答えが出る問題ではない。

 

マリーが処刑された後、マルグリットの表情をこれでもかと見せる場面が用意されているけれど、これも昆夏美さんとソニンさんで全く違う表情になっていた。花總さんのアントワネットとソニンさんのマルグリットの組み合わせでは、二人はあまりにも別世界の人間だということが実感される。違いすぎるがゆえに分かり合えなかった、という点で決定的だと思った。マルグリットが初めて部屋係(という名の監視役)としてチュイルリーの部屋で向かい合うシーンにおいては、同じように「怒り」と呼ばれる感情で、こんなに色が違って見えるものか、と感動を覚える。地獄の中で育ってきたマルグリットと、何もかも手に入れてきたのに孤独だったアントワネット。生まれた環境のおかげで別世界の人間みたいに生きている位相が異なってしまった二人。
「なぜ、あなたの方が上だと思うの?」と尋ねるマルグリット。迷うことなく「神が与えた権利」と答えるアントワネット。その断絶にわたしたちは絶望する。

 

もうひとつ、前日には聞こえなかった台詞がある。裁判の時、マリーが「初めて今わたしが何者なのか分かりました」と言っている*1。みずからの罪に気づいたことで、外の世界を見たことで、王妃は初めて自分を知った。それは彼女を処刑に持ち込むための裁判で、全ては遅きに失したのだけれども。

最後の裁判のシーンはつくづく迫力があった。いっけんかたい表情でじっと座っているだけの花總さんのマリー・アントワネット、双眼鏡でじっと見てると微妙に怒りで顔がわずかに歪む瞬間がある。

衣装が実際の資料を基にデザインされているのはパンフレットにも書かれている通りだが、先日の公演を見た後に中野京子さんの書籍*2でこの絵に出会い、舞台上にいたのはこの顔をした人だったとわたしは確かに思い出した。

f:id:sanasanagi:20181021121050j:plain

ポール・ドラローシュ《裁判のマリー・アントワネット

投げかけた問いかけに答えるものはなく、いま生きる社会に向き合う術も知らないまま、さまよえる霊のようにわたしは舞台観賞を繰り返す。わたしは、わたしの人生を豊かにする方法を探すだけで精一杯だ。けれどいつかは、誰かのために役に立てる人間になれると信じて日々をつなぐ。いまのところそれしか、わたしが許される道はないように思える。

 

 

関連記事

sanasanagi.hatenablog.jp

sanasanagi.hatenablog.jp

sanasanagi.hatenablog.jp

sanasanagi.hatenablog.jp

sanasanagi.hatenablog.jp

sanasanagi.hatenablog.jp

sanasanagi.hatenablog.jp

sanasanagi.hatenablog.jp

 

 

*1:この台詞、公演を見た後に読んだ本により、実際のアントワネットの発言として史実に残っていると知った。

*2: