耳をすますナツメグ

だれもみてない、ほら、いまのうち

『シークレット・ガーデン』の思い出

結婚するということは、一方が先に死ぬのを見送るということだ。そのことに気がついたときから、そんな決断をできた両親のことを見る目が変わっていた。そしていま、死ぬまで一緒にいたいと思える人がわたしの人生にも現れて、だからこのタイミングで出会えたこの『シークレット・ガーデン』という作品は、どうしても胸の中の大切な場所にしまっておきたいものになった。

 

世の中には、主人公が親を亡くすところから始まる物語が多いと、気がついたのは十代の頃だった。それは主人公の成長と自立を促し、居場所を見出すための鍵のようなものなのだと自分なりに解釈した。『秘密の花園』は読む機会を逃したまま大人になってしまったけれど、この作品のメアリーを観ていると自分が十代だったころの気持ちを思い出す。わたしが観た公演でメアリーを演じていた上垣ひなたさんも中学3年生なのだという。あのころ好きだった小説やテレビドラマの記憶までもが次々と蘇ってくる。『ハリー・ポッター』に『アボンリーへの道』、『ニコニコ日記』。わたしは昔から、寄る辺ない子どもが自分なりに居場所を見つけ出していく物語が大好きだったのだ。

 

はじめて人のお葬式に出たのも十代のときだった。それは子どもの頃から大好きだった祖母のお葬式だった。祖母の死は病によるもので、突然でもなければ心の準備ができないものでもなかったけれど、それでも死を受け入れるということの意味がそのときのわたしには分かっていなかった気がする。そして今でも、あまり分かっていないのかもしれない。ときどき思い出す。子どものとき、夏休みに祖母のいる家へ行き、隣に布団を敷いて寝ていたこと、眠れない夜、おばあちゃんがいとこたちと果樹園に逃げ込んですごした戦争中の話をしてくれたこと、朝の6時に起きていっしょにラジオ体操をしたこと、弟が暴れたときに母といっしょになだめてくれたこと。祖母が今でも元気だったとしても、同じように思い出していたのだろうか。

 

長い間離れて暮らしている人の死と、常にその肉体が側にあり、触れていられた人の死は違うとは思う。物理的に死者から自立していられたなら、その死は肉体のみのものにすぎないが、毎日すぐそばで呼吸し笑ったり泣いたりしていた身体が、突然無くなる、という喪失感は、今はまだ想像することしかできないが、でも誰もに訪れるものであることだけは確かなのだ。

 

人の姿は日々変化して、生きていても死んでいても、同じ時間は二度と戻ってこない。今ここにある現在がどうしようもなく空虚なものであるのなら、記憶の中に生きることはある意味幸福だ。庭で踊っている生者のアーチボルドも死者のリリーも、その笑顔はあまりに幸福そうで、それなのにふたりの手と手は触れ合うことがない。こんなにも美しい幸福な空間は、どうしてこんなに悲しい時間になってしまったのだろう。ふたりのラストシーンを知って二度目を観ると物語の美しさが際立つ。たぶん回数を重ねるほどに、舞台上の出来事と彼らの記憶が時間を超えて錯綜し、相互に影響し合い、異なる心の揺れを生み出す作品なのだ。

 

スタフォード・アリマさんの演出作品は、『シークレット・ガーデン』のほか、映像化されていた『アリージャンス』を観たことがあった。この作品とも、通底しているものが共通しているという気がする。現実の人と人との関係というのは、取り返しのつかないことが起こってしまうもので、ときにそうした亀裂が修復できないまま、大切な人を失うことがある。というより、大切な人を亡くすときというのは、誰しも大なり小なりそうした亀裂を抱えたままになっているものなのかもしれない。

 

ただ、これら二作品はいずれも、死者と生者との対話を導入することにより生者の精神を救う優しさがある。あくまでもファンタジーにすぎないのかもしれないけれど、実際残されて生きていく人間は、その対話を時間の経過とともに自然とやってのけなければ乗り越えることはできない。それを可能にすることが物語の役割なのだと、気づかせてくれる。

 

二作品の印象深い共通点はもうひとつあって、それは命の再生産というキーワードである。『シークレット・ガーデン』にもメアリーが植物の種を蒔きたがることに感化されたアーチボルドの歌う、命の芯、という素晴らしい曲があるし、『アリージャンス』でもレア・サロンガさん演じる日系人女性が子どもを産み育てている。死を受け入れて乗り越えるための希望は、新しい命の芯だ。肉体が朽ち果てても、記憶の欠片は降り注ぐ花弁のようにわたしたちと共にあり、新しい命の鍵を開き、立ち上がらせるための大地として支えてくれている。

 

美しい音楽と舞台と物語が一体となり、人の心の一番柔らかな部分に優しく触れてくる。この作品に出会えたことを感謝したい気持ちでいっぱいだ。