耳をすますナツメグ

だれもみてない、ほら、いまのうち

「1984」新国立劇場小劇場

 

[以下の文章は作品の内容に触れているため、これから鑑賞される方の妨げとなる可能性があります。]

 

 

劇場から出ると、5月の気持ちよい風が髪を撫でていき、コンクリートの壁ごしに見る空は青かった。わたしは現実に返っていた。日常に戻ったことを幸せに感じる舞台とはわたしにとってめずらしかった。


1984年、現代からみれば過去である年を舞台にしたこの物語の原作は、1949年に発表された(当時から見れば)未来の世界を舞台に語られるディストピア小説である*1。主人公ウィンストンが生きるのはビッグ・ブラザーと呼ばれる一党による独裁国家で、世界中が常に戦争状態に置かれている。人びとは四六時中、自分の意思で電源を切ることのできない「テレスクリーン」によって監視されている。党への反逆的な態度は密告の種であり、敵国への憎悪を植えつけられている。こうして書いてみると一見、崩壊前のソビエト連邦のような社会主義国家を想定した設定かと思われるのだが、奇妙なことにこの社会には「二重思考」が正当なものとして存在する。つまり、一定レベル以上の論理的思考力が必要とされる職に就いているような人間が、かような社会の真実の姿に気づかないはずはないのにも関わらず、表面上は党に隷従し、幸福で安全な社会に暮らしていると信じていることを表面上、装っている。


演劇が小説と最も異なるのは、「主人公が、その頭の中にあるものを見せることができない」という点だ。もちろん、多くの演劇に独白シーンは導入されているわけだけれど、基本的に芝居は登場人物たちが台詞を吐くことによって成り立っている。そしてわたしたち人間が他人の頭の中を見ることができないという制約がある以上、その舞台上で繰り広げられるやりとりそのものが嘘であるか真実であるかは分からないことになっている。(俯瞰して見れば、これが舞台の上で行われている以上、まず全部ウソではあるのだが。*2)こうした演劇の虚実のルールを利用して演出された作品であると、わたしは理解した。


つまり、どこまでがこの物語の中で「起こった出来事」であり、どこまでが「ウィンストンの頭の中の出来事」なのかが分からなくなるような仕掛けになっているのである。主人公が寝そべる部屋の窓の外で洗濯物を干している女性は、名も知らぬ近隣住民のひとりであると同時に、彼の記憶の中の母親でもある。ウィンストン演じる井上芳雄の身体は現在と未来、回想と現実、幻と想像の間を行き来する。どの場面が現実なのか、あるいは現実ではないのか。観ている者もウィンストン自身も、自分がどこにいるのか?という問いの答えは、「そのさなかにある者」には決して分からないのだ。そしてその「わからなさ」の共有により、わたしたち観客は次第に当事者たらしめられていく。


舞台上で1984年と交互に差しはさまれる、おそらく1984年の数十年後と設定された、現代日本に酷似した世界の場面で、ウィンストンの回想録を読む読書会のようなものに参加している老若男女の人物たちは、1984年のシーンと同じ顔、同じ声、同じ身体的特徴を持った同じ役者が演じている。人は生まれた社会によって生き方も価値も功績もまるで変ってしまうものである。とはいえ読書会の場に幼い子どもを同伴で来ている女性は、おそらくはその場にそぐわないからという配慮から、子どもの口を封じて椅子に座っておくように命じる。また、他の人の集中を削がないためという配慮から、携帯電話で外部の人間を会話することは禁じられている。

このように、現代ほどに自由で人権が保障された社会であっても、他人の行動を制限する行為は平然とおこなわれている。回想録を読んで「1984年」の監視社会を客観視しているはずの参加者たちですら、自分たちの行為を客体化することはできていないのだ。

現代においては子どもが騒いだり、携帯電話が鳴ってしまったとしても、洗脳が完成するまで拷問された挙句に射殺されるようなことはない。禁止事項に納得できないならば当然、その場から出て行く権利がある。そのことには一抹の救いを見ることもできるだろうし、いっぽうで閉鎖社会というのは(どんな規模のものであろうとも)常に支配・被支配の可能性をはらんでいるという危機感を覚えなくもない。


じっさい、好きこのんで劇場に訪れているわたし自身だって、携帯の電源をオフにし、腰が痛くなるのにも構わず椅子の背もたれにびっちりと背中を押しつけ、暗闇の中で目を凝らしてまで、毎週ラジオを愛聴している馴染みの俳優が拷問で苦しむ様を見つめ続けている。彼自身が「助けてくれ」「なんでそんなところで見ているんだ」と叫んでいるのにも関わらず。この空間のなかでは、観客は好きなタイミングでしゃべり出したり前のめりになったりすることは許されない。だれが決めたわけでもない、存在するのかどうかもわからない、だれかの「目」を気にしている。

もちろん、先述したように、わたしたちはこの舞台上で起こっていることが舞台上で起こっている限りは全部ウソであることも知っている。だがもし、この瞬間、ほんとうに拷問を受けている人が目の前にいたとしたら?わたしは傍観者でい続けるだろう。まず間違いなく、背もたれにしっかりと背中を押しつけたままで。*3


以前、『服従の心理』*4という本を読んだことがあるのだが、不思議なもので人間、命令されるとやりたくないと思っていることでも従ってしまう。命令に反抗するのには、従うよりももっと多くのエネルギーが要る。やってもやらなくてもどちらでもいいというときに命令されたら、従うほうが楽なのだ。


ウィンストンに拷問による洗脳を施しているときの、オブライエンの長台詞を聴きながら、わたしは焦りをおぼえていた。目の前で繰り広げられている画の強烈さの対極をなすかのように、穏やかで単調な口調で滔々と世の中の真実を述べるオブライエン。日本語の台詞なのに英語のスピーチを聞いているときのように、自分の既に知っていると思っている言葉しか、意味を持って耳に流れ込んできてはくれない。

聞き取れるところしか聞こえない、その事実が、彼の言葉の正しさを証明しているかのようで、気づいたら辛くて悔しくて泣いていた。人間は、自分の信じていることしか見ようとしない。わたしは、わたしの信じていることしか見ようとしない人間だ。わたしはそれが真実だとは思いたくなかった。人間はもっと自由な可能性がひらいているものだと思っていたかった。それなのに、オブライエンの突きつけてくる事実はどうしようもなく真実だった。

*1:一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

*2:たとえば、つい数年前まで黄泉の帝王と名乗って死への誘惑を歌っていた人が、今度は拷問にもがき苦しむというウソを、わたしたちは何のためらいもなく受け入れている。

*3:そんなことを考えてしまうのは、先日観た映画『ザ・スクエア 思いやりの領域』の印象が影響を及ぼしているのかもしれない。また後日、この映画を見て思ったことを思い出したら書こうと思います。

*4:服従の心理 (河出文庫)