耳をすますナツメグ

だれもみてない、ほら、いまのうち

「5DAYS 辺境のロミオとジュリエット」4月4日(水)19時公演


小劇場には行ったことがないが、「KAAT神奈川芸術劇場 中スタジオ」というところは、わたしにとっては小劇場に感じられた。いや、たぶん本物の小劇場というところは、たぶん下北沢の地下とかにあって、たぶんお客さんは演者の知り合いとか知り合いの知り合いとかが占める割合がもっと多くて、たぶんもっとアットホームな雰囲気がただよっているのだろう。ところが、わたしの中で劇場のデフォルトとして想定されているのは「梅田芸術劇場 メインホール」である*1。一方の「KAAT神奈川芸術劇場 中スタジオ」の、舞台照明の明かりが客席の後ろのほうまで照らし出してしまうサイズ感は、「これが小劇場か…!」と錯覚してしまうのに十分なものだった。
その近さのせいもあってかそわそわしてしまい、はじまって一曲目が終わって少ししてからも、わたしは物語の中に入り込んではいなかった。だれがロミオでだれがジュリエットなのかは外見と雰囲気で見当がつくけど、もしかしたら違うのかもしれないし……。けれど男の子たちが友だちどうしのように振る舞い始め、彼らのなかのパワーバランスや関係性が見えてきたあたりから、少しずつ引き込まれていった。それでも、主役のふたり(ハワルとリェータ)があっというまに恋に落ちてしまうあたりは気恥ずかしくてくすぐったくて、居心地がわるかった。大劇場で見ているときのような、「こちらは完全に彼らにとっては空気なのだ」と安心しながらにやにやできる感覚がなかったのが新鮮だった。


シェイクスピアロミオとジュリエットの話で、納得がいかないのが主役の二人とも死ぬことによって事が成ってしまうところである。『ハムレット』を見たときにも思ったのだけれど、どうにもできなくなったからえーい、みんな死なせちゃえー、という力技なのでは?とちょっと疑ってしまう。これらの悲劇のおもしろさ、美しさの本質はそこにはないのだから終わり方はそれでいいのかもしれないが、人が簡単に死なない時代に生きていると、なんだか腑に落ちないままに演出の力で感動させられて終わる、みたいなことがありがちで、冷静に考えてみると納得がいかぬ。
この「5DAYS」という作品は、その点と徹底的に向き合っていた。現代を舞台に、この『ロミオとジュリエット』を演じる意味とは。演じる若い人が全力で込めた思いが、思いがけず重かったことに気が付かされて、にわかには受け止めきれなかったわたしは、終幕後もしばらくは茫然としてしまった。
後を追って死のうとして、どうしても死ねなかったハワルを、情けない、と呼ぶこともできるのかもしれない。実際に、舞台上で大きな身体を文字通りなげうってもがく彼は情けないのだ。その上、後先考えずに取り返しのつかない行動を取ってしまうほど愚かでもあった。でも、たとえそうだとしても、どんなに苦しくてみっともなくて泥臭くても、生を選びつづける、ということへの圧倒的な肯定がこの作品にはあって、それがただごとではないと信じさせてくれるからこそ力をもらえるのだと思った。

*1:調べたら座席数1905もあった。