耳をすますナツメグ

だれもみてない、ほら、いまのうち

じつはわたしは伝えることに興味がないのではないか

 

 

新卒で入社した会社で働き始めてもうすぐ六年になる。

自分が社会人何年目なのか、考えても分からなくなったのは五年目を過ぎたころからだ。新入社員だったころなんてまだ昨日のことのようなのに、気がつけば同期は半分くらい転職しているし、職場にいる若手社員たちは、同年代の彼らどうしが話すときと少しちがう言葉を選んで話しかけてくる。こんなに長く同じ仕事を続けていると、苦労の量に比例してできることも増えていくもので、望むと望まざるとに関わらず、管理職からは自然と後輩の指導業務を頼まれがちになる。

 

そのたびにぶちあたる壁は、伝えることのむずかしさだ。

このブログの記事を見ればすぐにわかる通り、わたしの伝え方は大抵ひとりよがりだ。好きで書いている日記的な文章ならそれでいいのだが、仕事でも同じようにしてしまうのが困る。趣味でこういうことをやっていると自然と話す言葉も文章的になってきて、そのおかげか自分が何か意見を述べなければいけない場面で言葉に詰まることは大きく減ったものの、そのいっぽうで、相手に伝わることを重視していない文章ばかりがぽろぽろと口からこぼれ落ちてくる。

聞き手がある程度経験豊富な人であれば、自分の知識に引き寄せて、理解する努力をしてくれる。自分なりの言葉に言い換えて聞き返してくれるので、わかってくれたことがわたしにもわかる。

でも後輩社員は、そうではない。知識も経験もわたしより少ないのが前提なので、相手の理解力に期待するのは面目がなさすぎる。

そういうとき、わたしが無意識にとってしまう方法が、「相手の理解度に合わせて話す内容の粒度を変える」ということだ。つまり、一定の情報を伝えながら聞き手の顔を窺い、理解が追いついていない様子であれば単純なレベルの情報の伝達に留める。逆に理解できていそうであれば、より詳細な情報を伝えるというやり方だ。

理解していない相手に一気に大量の情報を伝えても無駄だと思うからそうするのだが、今の上司はそれではだめだと言うので、わたしはどうしていいのか分からないでいる。

こうして書いてみても、わたしはわたしの方法が間違っているとは思わないが、そのいっぽうで、上司の言うように、相手がどうせ分からないからと見限って、伝える努力をしないのはつめたいことなのかもしれないとも思うようになった。

 

思い出すのは学生時代、塾講師のアルバイトで中学生を教える仕事をしていたときのことだ。

つくづくわたしは他人を指導する仕事に向いていないなと感じた。宿題をして来ない生徒がいて、叱らなければいけないのに、怒る気が起きなかった。わたし自身が宿題をぜんぜんやらない中学生だったというのもある。べつに学生時代にまじめにやらなかったとしても、その人にはその人なりに生きていけるだろうということを思っていたので、感情の極致である「怒り」というところに自分をもっていくことができなかった。

それでも、自分はそれなりに勉強をして大学にまで行かせてもらったのが良かったと思っているのだから、その生徒の選択肢を増やすことを思うのなら、きちんと叱って無理やりにでも勉強させるのが思いやりだったのだろう。たとえ親から強制されていたにせよ、彼は最終的にはわたしのような大学生の立場を得たくて塾に来ていたのだから。それがわたしに与えられた役割だったのに、できないからといってしなかったのは怠慢だ。学年が上がって担任から外れた後、結局、その子は塾を辞めたと後から聞いた。

 

相手を指導する、ということは、こうなってほしいという自分のビジョンを相手に手渡すことだ。

相手のことを考えて、一生懸命工夫して考えて渡せば、喜んでもらえることもあるだろう。他のどの贈りものとも同じように。

そうであるなら、わたしは自分の描いたビジョンを拒絶されるのがこわいのかもしれない。自分だってだれかに手渡されたビジョンをなぞって生きているくせに、ずるいんだろうなあと思う。トランプの七並べで「6」のカードが渡ってきたのに、ずっと場に出さないで隠し持っている人みたいだ。